先日老子を読み終えました。

速読を意識したので二周目はじっくり読んでいきたいと思います。

 

第一章

道可道、非常道。名可名、非常名。

無名天地之始。有名萬物之母。

故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。

此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。

 

訓読文

道の道とす可きは、常の道に非ず。名の名とす可きは、常の名に非ず。

名無きは天地の始め、名有るは万物の母。

故に、常に欲無くして以て其の妙を観、常に欲有りて以て其の徼を観る。

此の両者は同じきより出でて而も名を異にす。

同じきを之を玄と謂う。玄の又た玄、衆妙の門。

 

・この文章から今の時点で感じている事

これが道だというものは常の道ではない。

道は万物の根元ではあるが、それを言葉で説明することは出来ないし、ましてや名付けることなど出来ない。

全ての事象は道から為るが、道を観ようとすれば無欲でなければいけない。

無欲のため観えるものは妙であり、奥深い。

有欲であれば徼しか観ることが出来ない。

妙とは「あまりにも奥深くて見ようとしても見えないこと」で、

徼とは「帰結や端」という意味とされます。

妙も徼も同じ玄から生まれるものではあるけれども観ているものが違う。

王弼は

「両者は始と母である。同出とは同じく玄から出ること。異名とは名付けられる場面が同じでないこと。首(はじめ)に在れば始といい、終にあれば母という」と注釈されています。

図解雑学 老子では

「「名有る」状態が「万物の母」だというのは、万物は名が与えられてはじめて万物と認識されるからで有る」

としました。

第四十二章では

「三生万物」という言葉がありますが、これは「天地間の陰陽の気が混ざり合って万物を生むということ」とされます。

つまり欲がある立場に立てば

徼という「天地間の陰陽の気が混ざり合って生まれた万物に名前がつけられた状態」しか観えないのではないでしょうか。

確かにそれは玄から生まれたものの一つではあるけども、端であって全てではないのかなと思います。

何事も無欲の立場で妙を観なければいけないのではないかと思いました。

道は奥深くて決してこれ!と捉えられる存在ではけれども、老子の様に無欲の立場に立てば感じることが出来るものなのではないのでしょうか。

道理という言葉は広辞苑では「物事のそうあるべきすじみち」とされますが、

道の理はどこまでも奥深いので、妙であり「玄の又た玄、衆妙の門」とされたのではないのかと思います。

臨床現場にまだ立っていませんが、きっとそういったことも必要なのではないか。と感じています。

 

参考資料

老子 岩波文庫 蜂屋邦夫著

図解雑学 老子 ナツメ社 蜂屋邦夫著

広辞苑 第七版 岩波書店

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