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主要メンバーによる投稿です。

異名同穴への一考察。

稲垣さんが 以前に異名同穴①という記事を作ってくれた。 こういった勉強はやはり重要であり、 今後の為には必ずなると思う。 そういった訳で、僕も考察を挙げてみよと思う。 経穴は元々孔穴と呼ばれており、 『素問』以前の古代では 臓腑との関連性と言うものはほぼ分かっていなかったようだが、 それが『黄帝内経』(ここではこう記しておきましょう)の編纂により、 中国医学の基礎ができ、 それ以後『難経』や『傷寒論』へと続いたと考えられている。 それに合わせ経穴の研究も始まり、 夫々 名前がつけられたのだと。 これが、現在の基本的な考え方だと僕は思う。 ただ稲垣さんが記したように、 経穴には様々な名前(原文には一名●●と記す)があり、 これに関しては、 単純に様々な流派が存在したと考える。 これは真柳誠氏の書籍等も含め考えたのだが、 一例として『黄帝内経』を基礎とした”黄帝流派”、 そして鍼の名医であった”扁鵲流派”があったのだと思う。 流派が違うというのは、 現代の鍼灸流派で言うと、考え方、捉え方の違いくらいだと思うが、 当時は実際に『黄帝内経』だけでなく、 様々な治療集団があり(元々 統一されてない国であったし)、 全て根底から異なっていたのではないか。 そうなると、 治療に使う経穴名というものも全然変わり、 それを後世の医家達が『明堂』のような書物を編纂する際に 色々な書籍を参考にした結果、 こういうものになったのであろうと。 で、『黄帝内経』を基礎とした書物が遺っていたから これを基軸に経穴名もつくられたのでは?と考えた。 まぁ、どこにも確証がないので、 一意見として。
お灸

気虚・四君子湯

中医における気虚の基本方剤といえば四君子湯になるだろう。 補益剤においては脾の運化に注意する。 長期間服用する場合、脾胃の運化を高める事で薬物を吸収し利用しやすくなるためである。 また脾胃を高める事で普段の飲食物の吸収率も高まり、胃の気や正気の充足に通じる要素もあるだろうと思われる。 四君子湯《出典:太平恵民和局方剤・治一切気》 治営衛気虚、蔵府怯弱、心腹脹満、全不思食、腸鳴泄瀉、呕噦吐逆、大宜 人参(去芦) 甘草(炙) 茯苓(去皮) 白朮(各等分) 上為細末、每服二錢水一盏、煎至七分、通口服、不拘時、入塩少許,白湯点亦得。 常服温和脾胃、進益飲食,辟寒邪瘴雾气。 効能:益気健脾(全体として脾の運化を高める) 方意:人参は胃の気を高める君薬である。 白朮は健脾することで湿邪をさばき、 茯苓は水湿をさばくことで健脾作用を引き起こす。 また人参と甘草には保津作用がある。 保津とは補気することで二次的に津液を生じるのであり 地黄や当帰など直接的に陰分を補うものとは作用を異にする。 これは古典に 「よく陽を補う者は陰中に陽を求め、よく陰を補う者は陽中に陰を求める」 と言われるように補陽剤に滋陰薬を入れると 陽薬の燥化を防ぎ補気剤の温煦を滑らかに行う技術の一つである。 たった四味から成る四君子湯ですが 補気剤の基本ということを考えれば 脾胃を中心に据えていることや (陽剤でありながら、陰薬の要素を含ませることで) 傷津に対する配慮がなされていること など学ぶものは少なくない。 また診断に関しては気血不足による純粋な痩舌よりも 湿邪を連想させる胖大舌が主な所見になっていることから 如何に脾胃が虚すと内湿が生じやすいかよく分かる というものである。 また本方はもともと経験方であり 原文にも長期服用するもの(常服)とあるので 当時、治療の中で補助的に 用いられていたように思われるが推察の域を出ない。 参考文献 『中医臨床のための方剤学』医歯薬出版
滝

五行臓腑配当を考える。

我々が『黄帝内経』より学ぶ五行臓腑配当は 木 火 土 金 水 肝 心 脾 肺 腎 となる。 東洋医学は東洋哲学・思想を 礎にしているというのはご承知のところだと思いますが、 面白いことに五蔵配当に関しては 年代・書物により異なってくる。 以下に記していく。 (木・火・土・金・水の順で記す。) 『管子』 脾 肝 心 腎 肺 『五行伝』 脾 肺 心 肝 腎 『淮南子』「時規訓」 脾 肺 心 肝 腎 『明堂』 脾 肺 心 肝 腎 『礼記』 脾 肺 心 肝 腎 『呂氏春秋』 脾 肺 心 肝 腎 『説文』 脾 肺 心 肝 腎 『太玄経』 脾 肺 心 肝 腎 『淮南子』「墜形訓」 肝 心 胃 肺 腎 『白虎通』 肝 心 脾 肺 腎 『黄帝内経』 肝 心 脾 肺 腎 こう見ていると、 黄帝内経と一致するものは『白虎通』ということになる。 これは僕自身もまだまだ調べていく必要があるが、 当時の時代背景、思想により変化していることが 十分に考えられる。 学校の教科者ではサラッと、 そして公式のように覚える必要がある 五行臓腑配当ではありますが、 調べていくと色々面白いことが分かってくるため、 もし時間がある方は調べて頂ければと思います。 下野
六甲山

純粋な東洋医学を実践していくということ:前編

先日、一般向けの方向けに 東洋医学の歴史について講義をさせて頂いた。 その時に、少し専門的であるが故に 話さなかった内容をここに記し、 今後 皆さんにとって 「東洋医学を実践する」と言う点に於いて 僕が思う「ここだけは絶対に揺るがないで欲しい」と いうところを医療史から見ていき 前編・後編に分けて記事にしていきます。 --------------------------------------------------------------------------------- 明治時代まで我が国の医学は 中国の思想、文化、哲学を集約した 中国医学を基に、 日本人独自の職人の様な五感の感覚を 組み合わせたものであった 鍼灸・漢方を中核とした東洋医学が 中心であった。 それが皆さんご存知の様に、 明治維新・文明開化と呼ばれる制度や文化を 西欧諸国化してしまう波がやってき、 勿論 医学もこの波にのまれてしまい 蘭学、西洋医学が日本の医療と位置付けられてしまい、 業界的にいう「東洋医学不毛の時代」がやって来るのである。 ただ日本の医療が転換したのは この時代だけでは無かった。 984年、丹波康頼によって「医心方」という 中国医学を基とした 我が国にとって非常に貴重な書物が編纂され、 言い換えれば、ここで日本の医療には 中国医学が中心になったと思われる。 実は中国から医学がやってきた時に 時の桓武天皇は日本独自の医療が途絶えてしまうと 危機感を持ち、 808年に「大同類聚方」という 我が国に於いて実践されていた治療を記録した 我が国最古の書物を編纂させたとされている。 ただやはり、先述したように 医療は中国医学が中心となったのであるが、 どこか伝承的、経験的にあった当時の日本医療にとっては 理論的に人間、そして病をみた中国医学は 非常に多くの人を助け、受け入れられたと思う。 ただこの2つの転換期、 すこし意味合いは違えども、 我々日本人の注意すべき点があると感じます。 これを後編で書こうと思います。 では。

学生・東洋医学を学ぶ者の為のプロジェクトを設置。

これからも勉強会や企画を 展開していきますが、 参加して頂いても、 なかなか単発でその場では 触発されて気持ちが盛り上がる ものの、 結局、それが日常にはならないといった問題が 発生します。 これが根本問題だと思います。 そこで、 一鍼堂の方から一つ、新しい サイトを作り、 勉強したいと思う有志にそれぞれ アカウントを発行して、 勉強した内容や疑問などを日記調に書き記して いってもらって、 それを僕らの方で見させてもらって、 アドバイス出来るものはするといった ものを考えています。 エントリーしたい人はまた、挙手お願いします。