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東洋医学・鍼灸医学の研究用ブログです。

日光が綺麗に見えました(記事の内容とは関係ありません)

脳についての復習

こんにちは、大原です。 脳に関して、解剖学・生理学の復習を行いました。 (以下、復習した内容をまとめたものになります。) -------------------------------------------------- 脳は、脊髄と合わせて中枢神経系をなし、 解剖学的に 延髄、橋、中脳、小脳、間脳、大脳に分けられる。 脳の松果体はメラトニンを分泌し、 人の睡眠や生体リズムに関わる。 形態は、松かさ状の小体で、大きさはあずき粒大、 色は赤灰色である。 松果体の前方には 視床、視床下部があり、これらを間脳といい、 視床下部の下には下垂体という器官がある。 下垂体からは 成長ホルモン、プロラクチン、FSH、LH、TSH、ACTHと、 多くの種類のホルモンが分泌され、 これらの分泌の亢進や抑制を主っているのは 視床下部である。 参考文献 『解剖学 第2版』 『生理学 第2版』 医歯薬出版 東洋療法学校協会 編

今日の一曲

Takaaki Itoh - Bloom After Broken Life  https://www.youtube.com/watch?v=8nnwbs_umFA 勉学や人生の諸問題で、煮詰まった時に、僕はたまにこれを聴き返す。 【破綻したあとに咲く、「何か。」】 こういう音楽を、勉強時のBGMに取り入れることがあります。 いったい、何回、聴いた(=破綻≒何か咲く)ことやら…… ※林先生より「Blogは自由に、なんでも書いていい。」と承ったので、今後はこういう記事も増やしていきます。 ※怒られたら止めます。

順気一日為四時篇 第四十四(01)

黄帝曰、願聞四時之気。 岐伯曰、春生、夏長、秋収、冬蔵、是気之常也、人亦応之。 以一日分四時。 朝則為春、日中為夏、日入為秋、夜半為冬。 朝則人気長、長則勝邪、故安。 夕則人気始衰、邪気始生、故加。 夜半人気入蔵、邪気独居干身、故甚也。 黄帝曰く、願わくば四時の気を聞かん。 岐伯曰く、春は生、夏は長、秋は収、冬は蔵、これは気の常なり、人もまたこれに応ず。 以て一日を四時に分つ。 朝は則ち春を為し、日中は夏を為し、日入は秋を為し、夜半は冬を為す。 朝は則ち人気が長じ、長則ち邪に勝り、故に安なり。 夕は即ち人気が衰え始め、邪気が生まれ始まる、故に加なり。 夜は人気が蔵に入り、邪気が独り身に居り、故に甚だしきなり。 【参考文献】 『黄帝内経 霊枢 下巻』東洋学術出版社

脈診(06)

引用:『中医診断学ノート』P30 ” 3、正常な脈象 ” 平脈 正常な脈象のことをいう。 脈位は浅くも深くもなく、 脈拍は速くも遅くもなく(一呼吸4〜5ーーー60〜90分)、 ゆったりとおだやかで、しかも力強い。 さらに、脈拍の律動が規則正しい。 有胃・有神・有根 正常な脈象(平脈)の特徴は 有胃・有神・有根の三つに表現される。 有胃 脈位は浅くも深くもなく、 脈拍は速くも遅くもなく、規律が正しい。 有神 ゆったりとしていて、しかも力強い。 有根 尺脈を沈取したとき十分に力強い。 そもそも平脈を臨床上で知り得るのはいつなのか? 主訴をもって来られた初診時ではないので、いつ? ”尺脈の沈取で力強い”とするのが、有根とあるが 邪によって強くなることもあるのでは? 人の個性や今まで歩んできた歴史によっても異なり、 ”正常な脈象”の把握って実は難しいように思う。 【参考文献】 『中医診断学ノート』東洋学術出版社

五行大義(06)

天皇陛下は、5月に皇居内の生物学研究所脇の水田にて、田植えをされます。 皇后陛下は、5月に蚕に桑の葉を与える御給桑(ごきゅうそう)をされます。 五行大義の水の性のところ、 「天子は耕に親しみ・・、王后は蚕に親しみ・・」とある。 我が国の文化の一端を知ることができ、興味深く思います。 潤下 水曰潤下。潤下者、水流濕就汗下也。 北方至陰、宗廟祭祀之象。 冬陽之所始、陰之所終。終始者、綱紀時也。 死者魂氣上天爲神、魄氣下降爲鬼。 精氣散在於外而不反。故爲之宗廟、以収散也。 易曰、渙亨、王假有廟、此之謂也、夫聖人之德、又何以加於孝乎。 故天子親耕、以供粢盛、王后親蠶、以供祭服、敬之至也。 敬之至、則鬼神報之、以介福。此順水氣。 水氣順、則如其性。如其性、則源泉通流、以利民用。 若人君廢祭祀、漫鬼神、逆天時、則水失其性、水暴出、漂溢没溺、壊城邑、爲人之害。 故曰水不潤下也。 水に潤下という。潤下なるもの、水 湿に流れ、汗に就れ下るなり。 北方は陰に至り、宗廟・祭祀の象なり。 冬 陽の始まるところ、陰の終わるところ。終始なるも、綱紀の時なり。 死なるもの、魂氣 天に上がり神となし、魄氣 下降して鬼となす。 精氣 散りて外に在りてかえらず。故に此を宗廟となりて散ずるを収るなり。 易にいわく、渙は亨り、王は有廟にいたると、これこれというなり、それ聖人の徳、また何をもって孝と加えるか。 故に天子は耕に親しみ、もって粢盛を供し、王后は蚕に親しみ、もって祭服に供し、敬これに至るなり。 敬 これに至れば、すなわち鬼神はこれに報いて、介福をもってす。これ水氣の順なり。 水氣の順、則その性の如く。その性ごとくは、すなわち源泉・通流し、もって民用に利する。 若い人君は祭祀を廃し、鬼神をあなどり、天時をかえし、すなわち水のその性を失い、水にわかに出て、漂溢・没溺し、城邑を壊し、人の害をなす。 ゆえに水、潤下ならずという。 【参考文献】 『五行大義』明德出版社 『易経』徳間書店 『安岡正篤 易経講座』致知出版社

五行大義(08)

学生時代に教科書『新版 東洋医学概論』より 第3章 東洋医学の思想 第2節 五行学説 Ⅱ 東洋医学における五行学説の運用 のところに 『五時(春、夏、長夏、秋、冬):五時は四季(春夏秋冬)に土用を加えたものであり、五季という・・ 』 ここに違和感を覚えておりましたが、 五行大義を拝読し、全てを網羅した分けではありませんが、 五時ではなく、四時(春、夏、秋、冬)としての記述であり、”土”は別の価値観としてあります。 この四時とした方が、立体的に五行として捉えており、 五時(春、夏、長夏、秋、冬)とした場合の、平面的な詰め込んだような違和感が無いように思います。 精査を続けたいと思います。   第二辯體性 (淮南子云)  「形体と性質について」淮南子(思想書)から引用すると、 淮南子云、天地之襲精爲陰陽。 陰陽之專精爲四時、四時之散精萬物。 積陰之寒氣、反者爲水、積陽之熱氣、反者爲火。 水雖陰物、陽在其内。 故水體内明。 火雖陽物、陰在其内。 故火體内暗。 木爲少陽、其體亦含陰氣。 故内空虚、外有花葉。 敷榮可觀。 金爲少陰、其體剛利、殺性在外、内亦光明可照。 土苞四德。 故其體能兼虛實。 淮南子がいうには、天地の襲精は陰陽となす。 陰陽の専精は四時となす、四時の散精は万物なり。 積陰の寒気、反なるもの水となし、積陽の熱気、反なるもの火となる。 水 陰物といえども、内に陽あり。 故に水の体内は明なり。 火 陽物といえども、内に陰あり。 故に火の体内は暗なり。 木 少陽たり、その体または陰気を含む。 故に内は空虚、外は花葉あり。 敷栄して観ることが出来る。 金 少陽たり、その体は剛利、殺性は外にあり、内はまた光明して照らすことが出来る。 土 四徳を苞む。 故にその体はよく虚実を兼ぬ。 【参考文献】 『五行大義』株式会社 明德出版社 『新版 東洋医学概論』株式会社 医道の日本社

仕事の帰りに少彦名神社

少彦名神社 【御鎮座】 道修町には、明暦四年(1658)頃から薬種商が集まっており、享保七年(1722) 124軒が幕府より道修町薬種中買仲間として公認された。 この仲間が生命に関する薬を神の御加護のもとに間違いなく取り扱えるよう、中国の薬祖神・神農氏と共に、 安永九年(1780)京都・五条天神から少彦名命をお招きして、仲間会所(現在地)におお祀りした。(引用:神社の案内より) (´ー`) 仕事の帰りに足を延ばし、少彦名神社に参拝に行ってきました。 御鎮座より今年で240年という事で、お薬と大阪との長い付き合いを感じます。 学生時代より度々お参りに来ておりますが、卒業後では初めて来させて頂き、試験合格のお礼をさせて頂きました。 卒業し、鍼灸師となった立場で神様に手を合わすというのは違った思いがあります。 本日は梅雨時の隙間、暑さは止みませんが、良い風が吹いていたように思いました。

五行大義(07)

昔、バイクに乗っておりました。 ビンテージなスタイルを好んで、トライアンフとかノートンとかに憧れておりました。 空冷の単気筒が、エンジンの状態も分かりやすくて好きなのですが、 冬ですと、エンジンが大気で冷えるのと、インテークエアが冷たく燃焼が好調なので、 私は「バイクの最適な季節は冬だ」と考えておりました。 (冷たい空気がエンジンに良い理由は”空気の密度が高い”とか”酸素濃度が高い”とかあるようです。) 五行大義の中、 『少陰則淸冷。故金以强冷爲體、従革爲性。』とあり、 金については冷たいことの優位性を説いてるように思います。 私たちが日々取り込む空気なり飲食なりが、過度に温度が高かったり低かったり、、 東洋医学を考える上でも、重要なのかもしれません。   第二辯體性 つまり形体と性質について 體者以形質爲名。性者以功用爲義。 五行體性、資益萬物。故合而辯之。 木居少陽之位、春氣和、煦溫柔弱。火伏其中。 故木以溫柔爲體、曲直爲性。 火居大陽之位、炎熾赫烈。 故火以明熱爲體、炎上爲性。 土在四時之中、處季夏之末。陽衰陰長。 居位之中、總於四行、積塵成實。 積則有間。有間故含容。成實故能持。故土以含散持實爲體、稼穡爲性。 金居少陰之位。西方成物之所。物成則凝强。 少陰則淸冷。故金以强冷爲體、従革爲性。 水以寒虛爲體。潤下爲性。 洪範云、木曰曲直、火曰炎上、土日稼穡、金曰従革、水曰潤下。 是其性也。 体なるもの形質をもって名となす。性なるもの功用をもって義となす。 五行の体制、万物を資益す。故に合してこれを弁ず。 木は少陽の位にあり、春気 和し、煦温し柔弱する。火はその中に伏す。 ゆえに木は温柔をもって体となし、曲直を性となす。 火は大陽の位にあり、炎熾し赫烈する。 ゆえに火は明熱をもって体となし、炎上を性となす。 土は四時の中にあり、季夏の末のところ。陽は衰し陰は長ず。 位の中にあり、四行を総じ、塵を積もりて実をなす。 積もれば則ち間を有す。間がるがゆえに容を含む。実をなすがゆえに持も能う。 ゆえに土は含散・持實をもって体をなし、稼穡を性となす。 金は少陰の位にあり。西方は物を成すところ。物を成せば則ち凝強す。 少陰は則ち清冷なり。故に金は強冷をもって体となし、従革を性となす。 水は寒虚をもって体となす。潤下を性となす。 洪範云、木は曲直といい、火は炎上といい、土は稼穡といい、金は従革といい、水は潤下という。 これはその性なり。 【参考文献】 『五行大義』株式会社 明德出版社
切脈一葦

切脈一葦 序文2

こんにちは、大原です。 前回(切脈一葦 序文1)は、 『切脈一葦』の二ページ目の最後の一文の途中で終わりました。 今回はその続きからになります。 今回も原文から文意を汲み取って、 文章の読み方を考えていきます。 <読み方> 王叔和(おうしゅくか)、この理を知らず。 心と指とを分けて論ずること、一笑に余れり。 また指を以て診する法は、世に伝えて教えと為すべし。 心を以て了する法は、其の人にあらざれば伝うることあたわず。 しかるに今その伝うることあたわざる法を易しとし。 その伝えて教えと為すべき法を難かしとす、思わざるの甚だしきなり。 またその明らかし難き所の脈状を書き著して、 教えを世に垂れんとす。 これ全く己を欺き、人を欺くの甚だしき甚だしなり。 歴代の医、これを弁ずることあたわず。 却ってその説を潤色して、脈の一診を以て、病を知るの法とす。 これ古人の脈法廃して、ただ王叔和の脈法のみ。 世に盛んなるゆえんなり。 家君かつて曰く、 凡そ脈の変態多しといえども、その状十余種に過ぎず、 ただこれを形容する所の文字多きのみ。 王叔和の徒これを弁ぜず。 形容する所の文字を以て、脈状の名と定めて、一字一字に註解を加えて、 二三十の脈状と為す。 これ脈学塗炭に墜(お)ちるゆえんなり。 ○敏ならずといえども、黙してこれを看過するに忍びず。 因りて切脈一葦を作ると。 これ家君が文字の脈状を破りて、脈状の文字を活用するの大意なり。 この書は固(もと)より大河の一葦にして、 脈学を尽くすことあたわずといえども、 これをもって学ぶときは、古人の流に溯(さかのぼ)るべし。 古人の流に溯ぼるときは、古人と異なることなし。 古人何人ぞ今人何人ぞ、 ただ古人は志を厚くして深くこの道を窮(きわ)めるのみ。 これ今人のあたわざるところにあらず。為さざる所なり。 もし今志を厚くして深くこの道を窮(きわ)める者あらば、 脈を診するに臨みて何ぞ古人に譲らんや。 もし古人に譲る心 (以下、次のページ、下に続く) 有りて、脈を診するときは、必ず心に安ぜざる所あり。 もし心に安ぜざる所あるときは、必ずその病を決断することあたわざるなり。 故に脈を診するに臨みては○がごとき浅劣の者といえども、 必ず古人と異なることなき心を以てこれを診す。 いわんや明達の人においては、 ○が古人と異なることなき心を以て診すると同じからず、 必ず古人と全く同じき者あらん。 豈(あに)ただ古人と全く同じきのみならんや。 必ず古人のいまだ発せざる所を発するものあらん。 後生畏るべし。 これ○が議するところにあらざるなり。 天保辛卯春三月十五日男○謹序 --------------------------------------------------------------------------------- 況(いわん)や:もちろん、言うに及ばず 豈(あに):どうして〜(反語) 決して〜ない --------------------------------------------------------------------------------- 前回に続きですが、 その内容は、著者の 「王叔和は何も分かってない」という 非常に厳しい批判から始まります。 脈診で必要なのはそれを診る心であるが、 王叔和は脈の状態を何種類かに分類して 「○○脈であれば△△の病である」と、 脈の状態でその場合の病はこうであるというように分類しているが、 こんなことが正しいのだろうか・・・、 このような考え方が広まってしまうのは脈学にとってマイナスではないか、 これでは脈学は地に堕ちてしまう、 もうこれは見過ごせない!、 ということで、この『切脈一葦』を記したと書かれています。 その後に、前回の記事の内容とからめ、 まとめのような形で 大事なことも書かれています。 ちなみに王叔和は、 有名な『脈経』という大書を著した人物として有名です。 また『傷寒論』の編纂もされたといわれており、 その功績は非常に大きく、 東洋医学の歴史の本には必ず載っているイメージがあります。 (為沢先生が王叔和についてのブログを書かれています。 https://www.1sshindo.com/blog/zenith17665/ ぜひ参考にしてください。) 参考文献 『切脈一葦』(京都大学附属図書館所蔵) 画像は京都大学デジタルアーカイブより

脉要精微論篇 第十七(01)

黄帝問曰、診法何如。 岐伯對曰、診法常以平旦。 陰氣未動、陽氣未散、飮食未進、 經脉未盛、絡脉調匀、氣血未亂。 故乃可診有過之脉 切脉動静、而視精明、察五色、 観五藏有餘不足、六府強弱、形之盛衰。 以比参伍、決死生之分。 患者さんが来院され、部屋に案内して暫く。 問診に入らせて頂き、四診を行うも 患者さんの全体象が掴めていないなぁ・・と反省の日々。 対峙した時の弱さをつくづく思う。 治療する側として、心持ちから何から必要なものが多々あり。 切脉一つするにせよ、無駄遣いを心掛けなくてならないと緊張感を持つ。 【参考文献】 「現代語訳 黄帝内経素問 上巻」東洋学術出版