文字・言語
文字、言語って何なのか。
調べた訳ではないが、集団で行動する為にイメージから共通の認識を言化・文字化したのではないのかな。
つまり「大体こういう意味ですよね」という共通認識を作ることでコミュニケーションを容易にさせているのだと想像。
では、共通言語や文字を持たない相手とは理解し合えないのか。
様子に出るのでそういう訳ではないと思う。
家の猫を見て、
「今かまってほしくないんだな」
「これからこっちくるぞ」
「喜んでるな」
「この空気が好きなんだろうな」
など伝わるものもある。
身体を触らせてもらった時で一番わかる時は包む様に触った時。
その時の自分は柔らかい状態にあると思う。
結局は猫ではなく、人間の治療をする訳だけれども、同じく言語に振り回されず、言葉は通じないものとしてやってみたい。
先日受付で話に出たケータイは怖いですよねと言った話、
「勝手に枠組みを作られて色眼鏡になり、相手を見れなくなる」
その認識とも繋がる気がする。
結局何か情報として伝えられた段階っていうのはわかった気にはなれるけど、わかってないんだと思う。
そこに自分の感覚が乗らないと本当に理解できない。
次の寺子屋は「人ではなく生命現象に触れる」
あれこれ書いたけど、そっちの方が自身をフラットに保てる気がするので、そんな感じでシンプルに切経してみよう。
勉強会など
先日勉強会で症例検討を行いました。
その際に気になった点を書いていきます。
舌
状態から考えて陰液の欠乏、熱、正気の弱りが考えられる。
脈
Oさんから教えていただいた感覚から
瘀血、虚熱、正気の弱りが伺えた。
切経も含めて、まずは脾と胃の関係を考え直したい。
また、症状からして脾気虚を原因とした脾陰虚の様なニュアンスも感じます。
これが原因で病理産物も生成されたのか。
現代語訳 黄帝内経素問上巻 太陰陽明論篇
「四肢は皆気を胃に稟くけども、経に至ることを得ず。必ず脾に因りて、乃ち稟くることを得るなり。
今 脾病みて胃の為に其の津液を行らすこと能わざれば、四肢水穀の気を稟くるを得ず。」
「黄帝がいう。「脾と胃とは、一つの膜を挟んで連ねているだけであるが、脾が胃に変わって津液を輸送するというのはどういう理由か。」
岐伯がいう。
「足の太陰脾経は、三陰と言いますが、その経脈は胃を貫いて脾に連属し、咽喉を絡っています。
このため太陰経の脈は胃の水穀の精気を手足の三つの陰経に送ることができるのです。
一方、足の陽明胃経は、足の太陰脾経の表にあたり、五臓六腑の栄養の供給源です。
このため太陰脾経が胃に変わって津液を送るといわれています。
五臓六腑はいずれも脾経を経て胃の水穀の気を受けています。
このため太陰脾経が胃に変わって津液を送ると言われています。」」
切経から陽明の熱の様な存在も気になったのですが、脾が立て直され陰液が生成される様になれば自然と落ち着くのか?
上の文、気になったので書き残します。
他に瘀血のできる位置もとても勉強になりました。
課題
相手を感じれた?時なんとなく相手の気持ちが移ってきて同じ様な状態になる事が少し増えたのですがこれはまた自分の課題とするところと違うのか。
良い事なのか悪い事なのかわかりませんし、一向に問題をクリアできていないのですが今までにはなかった感覚なので新鮮です。
気になった事を色々と
《標本》
色んなパターンを思考してみる。
例えば、方剤では「芍薬甘草湯が腓返りに効く」とされる。
以前勤めていたところは整形外科の処方箋がバンバン来るので反応聞いてみると確かに症状は緩和されている。
しかし、効かない人やいつまでも服用する人も発生する。
全く効かない一つのパターンとして存在したものが「脾胃が弱って痩せ細っている人」
《現代語訳 黄帝内経素問 P375》
「食物が胃に入って消化されると、一部分の精微な気は肝臓に送られ、そこで浸みこみ溢れた精気は筋に滋養を与えます。」
ここから脾胃の弱りから肝が関わる腓返りが発生すると想像すると、じゃあ※太衝を使って肝血を増やしたとする。
でも発生した肝血虚が副次的なもの何だったら繰り返し起こる事になる。
方剤でも抑肝散の構成をみると
〈柴胡・甘草・川芎・当帰・白朮・茯苓・釣藤鈎〉
説明では、
《中医臨床のための方剤学 P428》
「健脾薬の配合は、脾の健運を通じて肝の陰血を補充し、柔肝する目的である。」
元々脾胃が未成熟である乳幼児の処方であった事を考えると、本は脾胃であると考えられる。
※まだ刺して治した経験がないので、穴性学の知識で仮定しています。
《自身の治療変化》
ここ最近の治療で体がまた変わってきた事を感じる。
自身がほんのり感じていた右の違和感に変化あり。
治療後の自分のお腹を触る。
右の邪が溜まっている部分が熱くなっている。
きっとしっかり治っていってるんだなと嬉しくなる。
そういえば、臍の形も変わったな。
変化を感じた箇所
太白周辺が赤みを帯びている
何か走ったなと思う箇所の付近にある経穴
腎経…兪府
胆経…京門、風市、帯脈、環跳、頭臨泣
脾経…血海、三陰交、商丘、大包、四白
肝経…曲泉
色々あるが使われた手数はとても少ない。
《電車の中で》
電車に乗っていると
こちらが逃げたくなる様なかなりの圧を感じる人がいる。
おそらく警戒心の様なものなのかな。
自身が投影されている部分もあるのかも…
患者さんの体を触るときも気をつけたい。
《臍》
神厥で起こる様な変化は果たして神厥に限った話なのかな。
他の経穴にも起こるのかもしれない。
そうなってくるときっと本に乗っていない様な色んな見方ができる様になるかもしれない。
それが合っているかどうかはまずはきちんと診れる様になった先にある話だけれど。
参考資料
「中医臨床のための方剤学」 東洋学術出版社 神戸中医学研究会著
「現代語訳 黄帝内経素問 上巻」 東洋学術出版社 南京中医学院編
おばあちゃん(95歳)と鍼 ②
先日、祖母に会いに行ったことをきっかけに、
拘縮や認知症について知識が乏しいと痛感しました。
学校に行き仲良しの司書さんに相談しました。
「私も介護をしていて、
認知症や介護の本をたくさん揃えたのよ!
でも中々見てくれる人が少ないんよ」
と話してました。
1時間ほど司書さんと本を吟味して
拘縮ケアや認知症の行動心理学の本を
借りました。
拘縮を防ぐタオルの位置や
介護時の声の掛け方など
とても参考になりました。
今日祖母に会いに行ってきました。
午前中、按摩師さんに施術をしてもらっていました。
日によって差がありますが、
顔色も良く、傾眠もほとんどありませんでした。
眉間の皺がないことに一安心。
それでも、腕はきつく抱きしめたて
膝頭が隙間のないくらいひっついていました。
硬い手すりに腕が食い込んでいました。
「もうあきませんわ…」と祖母は弱気でした。
「ほな、鍼しましょうか」と言うと
昔鍼治療によく通っていた祖母は軽く頷きました。
車椅子に乗ったまま4箇所に鍼をしました。
足を2箇所した後、体を前屈できるようになり、
前回できなかった背中にも鍼をすることができました。
1mmも刺していませんが、
動きが予測できないので置鍼は少しヒヤヒヤしますね。
てい鍼があれば安心かもしれません。
背もたれに当たらないようにタオルを挟み
前屈姿勢を介助してもらいながらの置鍼でした。
5分ほどの置鍼した後、脇に隙間ができて
握り締めていた指が徐々に解けてきました。
痛がる場合があるので、
声かけしながら指を動かしていきます。
拘縮した手の中は汗ばみ
菌が繁殖するのでとても臭いです。
爪が食い込み、それだけでも痛いだろなと。
看護師さんに握り締めた指の解き方を教わり、
鷲手のようになった隙に爪切りをしました。
腕を膝上に降ろせるようになったので、
袖をめくって脈を見ようとしました。
拘縮の姿勢でクロスして両腕が当たっていた部分は内出血していて、加わる力の強さに驚きました。
タオルを摘んだり、コップを持ったり
自分の意思で動かせるから祖母はご機嫌そうでした。
祖母は孫のことをわかっているのかな。
私の名前を言うとニコリと笑って頷きました。
私が今日全身真っ白の出立ちだったので、
時たま「先生、ここが痛いんですわ」
話してくれました。
「指があかんようになってあきませんわ」
「お団子が食べたいですわ」
「ありがとうさん」
今日は傾眠することなく、
話はチグハグだけど、ゆっくりゆっくり
色んなことを話してくれました。
「本人が言いたいこと、伝えたいことを話せるようにしてあげたらいいんですよ」
と祖母のことを相談した時に
お爺さんに治療された経験談を交えて
下野先生がお話してくれました。
鍼で延命、なんていうことは考えていません。
残された時間を祖母が穏やかに
過ごせればと思います。
鍼をする前。
腕は拘縮し、体が傾き肘置きに腕が食い込む。
昔よく握手をしていたので、
「握手して」というと手を差し出してくれました。
上腕は動かない。
足の鍼施術後、腕が解けて軽度の前屈が可能に。
背中と肘に空間ができたのでタオルを入れて
姿勢を安定させる。
背中に5分置鍼、腰は鍼が無理なので軽擦。
車椅子のステップから足を降ろしたり、
自分の意思で少し動かせるように。
脇に空間ができて、
肘置きに腕を置けるように。
動かす時は、方向や位置を
知らせた後に動かしています。
タオルを摘んで畳む動作をする。
はじめました
初めて投稿します。北山です。よろしくお願いいたします。お正月、実家でひたすら食べ物が出現する状況でしたので、飲食について調べてみました。
飲食物の摂取については、適量を維持することが最も重要であり、食べ過ぎたり(過飽)、食べる量が十分でない状態(過飢)はどちらも脾胃の機能を損傷させる、とありました。
バランス良く食べる事は大切ですし、食べ過ぎてしまうことが身体に良くないことはなんとなく体感としてわかるように思います。しかし身体は食物を摂取することで気血を生成するため、当然適切な量を食べないと気血は衰弱、減少する。気血が減少すれば正気が不足し、外邪の侵入を防げなくなってしまう。考えたら当たり前なのかもしれませんが、食べないことによるダメージは実感としてわかりにくいため(個人差?病のような状態になるまで時間がかかるから?でしょうか?)、食べ過ぎることと、食べなさ過ぎることが同じくらい脾胃にダメージを与えてしまうとは思っていなかったので驚きました。もう少し調べてみたいと思います。
【memo】
脾胃:
飲食物の栄養を運搬吸収する主要な器官
五味:
酸苦辛甘咸、食物成分、飲食物の総称
「五味口に入りて、もって五気を養う」(素問 六節臓象論篇)
切脈一葦 上巻2
こんにちは、大原です。
前回の続きです。
前回:切脈一葦 上巻1
今回も、原文に書かれている文意を汲み取りながら、
その読み方や
著者の言いたいことは何かを考えていきます。
今回のところは、主に、著者の脈診に対する
厳しい考え方が記されているところになります。
---------------------------------------------------------------------------------
画像は京都大学デジタルアーカイブ『切脈一葦』より、
9ページ目から引用。
(本ブログ記事で参照した箇所を掲載)
<読み>
脈は、血気の盛衰を診する処(ところ)にして、
病の所在を診する処にあらず。
故に部位を論ぜず、
ただ動脈のあらわる処(ところ)をもって、
診脈の処となすべし。
寸口を診するの法、三指をもって、
掌後後骨の側、動脈手に応ずる処を按じて、もって寸口と定むべし。
脈あらわる処長き者は、指を疎にして診し、
脈あらわる処短き者は、指を密にして診るべし。
小児は、一指をもって診すべし。
反関の者は、動脈あらわる処を以て、寸口と定むべし。
凡脈を候うことは、五十動を診するをもって法とす。
必ず倉卒(そうそつ:急なさま。また、あわただしいさま)に
看過することなかれ、
もっぱら心を指下に留めて、
言することなかれ、
観ることなかれ、
聴くことなかれ、
嗅ぐことなかれ、
思うことなかれ、
これ脈を診するの要訣なり。
→ここまでは脈診における秘訣が書かれています。
脈を診るときは、
それ以外のことに神経を奪われたりせずに
脈診に集中することが一番大事であるぞ!
と書かれています。
寸口は、手太陰肺経の脈にして、
五臓六腑の死生吉凶を決する所となし。
肺は諸気を主るゆえに、
また気口と名づけ、
肺は百脈を朝せんとして、
脈の大会なるゆえに、
また脈口と名づく。
その名3つあれども、その処は一なりというは、
皆分配家の説にして空論なり。
寸口は固より十二経の名も、
経穴の名も、いまだ有らざる以前の名にして、経穴の名にあらざるなり。
然るも後世に至って、
経絡を分かちて空所の名を配するときに、
寸口の地を、肺経の脈動と定めて、経渠・太淵二穴を配したる者なり。
また気口・脈口等の名は、
その後肺経の理を推して、名づけたる者なり。
→以上、ここでは、
脈診で脈をとる手首のあたりのことを
寸口といったり気口といったり脈口というが
それらは
「単に言い方を変えているだけで
同じものだ」というのは嘘だぞ!
と言ってます。
『素問』に、寸口気口の名有りて寸関尺を分かちて
三部と為すの説なし。
『難経』に始めて寸関尺の名を立つといえども、
いまだ左右に臓腑を分配するの説なし。
晋の王叔和に至って、始めて左右に臓腑を分配
するの説を出せり。
一の難は、一呼吸の間に、脈行くこと六寸、一日一夜に、脈行くこと五十度と定めて、
二の難は、尺寸を一寸九分と定めて、
臆見(おっけん:確たる根拠のない、推測や想像に基づく考え)を
もって空理を論じたる者なり。
十八の難は、三部四経の説を立てるといえども、その言簡古にして解すべからず。
王叔和の分配を得て、粗通すといえども、これを要するに無用の空言なり。
→ここの最後のあたりに
「空理を論じているぞ」、
「無用の空論」であるぞ!
と言ってますが
つまり、脈診において
左右の脈それぞれに臓腑を割り当てるのは
机上の空論であって
実際はそんなことは全くないのだ!
と言ってます。
『霊枢』に、気口と人迎とをもって陰陽に配して診することあり。
これまた無用の空言なり。
→また「無用の空論」が出てました。
『素問』に、寸を按ずの語あれども、寸は寸口のことなり。
尺は肘の横紋より、掌の根までの間を尺といいて、
この処の堅脆滑渋を見て、診法と為することなり。
また尺内の両傍は季肋なりの語あれども、尺内は、腹のことなり。
然るを分配家の徒が、尺脈のこととするは誤りなり。
→「尺」とは
いわゆる「寸関尺」の尺だけではないぞ、
他の意味もあるんだぞ、と言ってます。
趺陽は、趺上にあらわるをもって、名づけたる者なり。
然るを後世に至って、分配家の徒が足陽明胃経に配して、
衝陽と名づけて、胃気の有無を候う処と為す者は、
寸口を五臓の気を候う処とするともってなり。
また人迎を足陽明胃経に配するも、この意なり。
それ脈は、皆胃気を候うの診法なり。
なんぞ、人迎趺陽のみに限らんや。
両額の動脈を、上部の天となし、
両頬の動脈を、上部の地となし、
耳前の動脈を、上部の人となし、
手太陰を、中部の天となし、
手陽明を、中部の地となし、
手少陰を、中部の人となし、
足厥陰を、下部の天となし、
足少陰を、下部の地となし、
足太陰を、下部の人となす者は、
素問の三部九候なり。
両額の動脈は、足少陽胆経の頷厭の動脈を指すなり。
両頬の動脈は、足陽明胃経の地倉の動脈を指すなり。
耳前の動脈は、手少陽三焦経の和髎の動脈を指すなり。
手太陰は、肺経の経渠の動脈を指すなり。
手陽明は、大腸経の合谷の動脈を指すなり。
手少陰は、心経の神門の動脈を指すなり。
足厥陰は、肝経の太衝の動脈を指すなり。
足少陰は、腎経の太谿の動脈を指すなり。
足太陰は、脾経の箕門の動脈を指すなり。
これ皆分配家の空論にして、
実時に用え難し。
もし、よく18箇所の動脈を診し得るといえども
病証を論ずるに臨みて、いずれの動脈を主となすべけんや。
これ一身一動脈にして、
別脈にあらざることを知らざるの誤りなり。
→脈を診る場所が18箇所もあったら、
どの脈を診て判断すればいいのか?
人間の身体に18本の脈があるんではなくて
全部つながってるから(一身一動脈)
18箇所も診なくて良いのではないか?
そういうことが分かってないから
こんな誤った空論を書いてしまったのだ!
魚際と尺沢との間を、一尺と定めて、
掌後一寸九分をもって、尺寸の地となし、
前九部を寸となし、
後ろ一寸を尺となし、
寸と尺との間を関となす。
これを三部という。
寸は胸以上の疾を主どり、
関は膈より臍に至るまでの疾を主り、
尺は臍以下の疾を主る。
また医の指を浮かべて診するを浮となし、
中按して診するを中となし、
沈めて診するを沈となす。
これを九候という。
浮は心肺を候がえ、
中は脾胃を候がえ、
沈は肝腎を候がう。
これ難経の三部九候にして、
全く分配家の空論なり。
たとえば・・・
(ここまで)
→脈で、
寸は胸以上の病、
関は膈〜臍の病、
尺は臍より下の病を診るとあり、
浮は心肺、
中は脾胃、
沈は肝腎を診ると難経にあるが、
これらも空論であるぞ、
と言ってます。
---------------------------------------------------------------------------------
さて、著者がばっさりと「空論であるぞ」とした内容は
鍼灸の学校の実技の授業などでも
教わった内容だと思います。
『素問』の現代語訳など目を通すと
「素問に書いてあるのでやっぱり正しいことなのか・・・」
と思ったり
でも、やはり「本当にそうなのか?」みたいな感じも
個人的には両方あったように思います。
脈診における考え方において、
この『切脈一葦』を読んで
「空論だと言っているから
寸関尺を臓腑に割り当てる考え方は間違っているんだ」などと
安直に片付けてしまうのは良くないでしょうが、
著者が空論だと言い切る理由を
知っておくのは大事だと思います。
もしその理由が腑に落ちないなら、
もとの考え方にも一理あるのでは、
という具合に
考え方の幅が拡がるように思います。
重要なところですが、
長いので続きは次回にします。
引用:
京都大学デジタルアーカイブ『切脈一葦』より
五行色体表の学習
皆さまこんにちは。
本日は五行色体表の暗記を行う際に、
気になったものについて学習しました。
私が特に難しいと感じたのは〝五脈〟です。
五脈(弦、鈎、代、毛、石)
難しいと感じる理由として、
漢字からどういう脈なのか
イメージできるものと、しにくいものがあると感じました。
そこで、まずは教科書から五脈について学んでみたいと思います。
はじめに五脈とは?
→五脈は五臓と対応する脈のことである。
〈対応する五臓と脈について〉
(肝)弦は、糸がピンと張ったような脈
(心)鈎は、拍動の来るときが強く、去るときが弱い脈 である。
(脾)代は、やわらかく弱い脈のことで、「代脈(不整脈の一種)」とは異なる。
(肺)毛は、羽毛のように軽く浮いて力のない脈
(腎)石は、石のように硬く沈んだ脈
『素問』平人気象論篇第十八では、五季の正常な脈を
「春は微かに弦」「夏は微かに鈎」「長夏は微かに耎弱(ぜんじゃく)」
「秋は微かに毛」「冬は微かに石」と記載し、この脈以外では病や死になるとしている。
ここまでは教科書に記載していた内容です。
次に、東洋学術出版社『素問』平人気象論篇第十八(p304〜308)から抜粋した原文をみてみたいと思います。
【原文】
平人之常气禀於胃。胃者平人之常气也。人无胃气曰逆。逆者死。
春胃微弦曰平。弦多胃少曰肝病。但弦无胃曰死。胃而有毛曰秋病。毛甚曰今病。藏真散於肝。
肝藏筋膜之气也。夏胃微钩曰平。钩多胃少曰心病。但钩无胃曰死。胃而有石曰冬病。
石甚曰今病。藏真通於心。心藏血脉之气也。长夏胃微耎弱曰平。弱多胃少曰脾病。
但代无胃曰死。耎弱有石曰冬病。弱甚曰今病。
藏真濡於脾。脾藏肌肉之气也。秋胃微毛曰平。毛多胃少曰肺病。但毛无胃曰死。毛而有弦曰春病。弦甚曰今病。藏真高於肺,以行荣冲阴阳也。
冬胃微石曰平。石多胃少曰肾病。但石无胃曰死。石而有钩曰夏病。钩甚曰今病。
藏真下於肾。肾藏骨髓之气也。
【書き下し文】
平人の常気は胃に稟く。胃なる者は平人の常気なり。人に胃の気なきを逆と曰う。逆なるものは死す。春の胃は微弦なるを平と曰う。弦多く胃少なきを 肝 病むと曰う。但 弦のみにして胃なきを死と曰う。胃ありて毛あるを秋に病むと曰う。毛甚だしきを今病むと曰う。蔵の真は肝より散ず。肝は筋膜の気を蔵するなり。夏の胃は微鈎なるを平と曰う。鈎多くして胃少なきを心 病む曰う。但 鈎のみにして胃なきを死と曰う。胃ありて石あるを冬に病むと曰う。
石甚だしきを今病むと曰う。蔵の真は心に通ず。心は血脈の気を蔵するなり。長夏の胃は微・耎弱なるを平と曰う。脈多く胃少なきを脾 病むと曰う。但 代のみにして胃なきを死と曰う。耎弱にして石あるを冬に病むと曰う。弱甚だしきを今病むと曰う。
...
舌診(01)
舌の研究
修行生のSさんと勉強をします。
「左腕の外転について難あり。」との主訴により
刺鍼を行いました。
〈前〉
〈後〉
上逆し易い体質と考え、
上がらない重しをしっかりとさせる事を
長期的な目標としております。
主訴を受け、
気血の巡りをよくしたいと思い
その阻害要因が中焦より下焦へと続く
舌の苔に診られる通りの邪熱かと考えます。
刺鍼後、
左腕の外転にやや改善が診られた事で好転反応はあり。
舌苔が面積も厚さも少なくなってる事、
舌体より気虚症状の減少が診られる事などから
ある程度の効果があったのかと推測されます。
経過を観察をしていきます。
先週の患者さん
先週の患者さん
以前見たことのある空気感だった。
脾虚がベースにあり気遣いをされる方。
ストレスを受けていてもどこか他に気を使われている。
ストレスを受けたとしても体質や本人の処理の仕方で傷つく臓腑は違う。
また、自身がここが気になると先生に報告した穴で治療するとどうなるか。
以前別の患者さんで聞いた話を思い出した。
匙加減を間違うときっと暴発してしまう。
直接的、表裏と二つの側面から難しいのかと想像。
フットサル
鍼灸とは全く別の話です。
フットサル選手の感覚を知りたくて、
「ガチガチの個サルより緩い個サルの方がドリブルが難しくないか?」と聞いてみた。
帰ってきた答えがブレースピードが早すぎると相手によっては反応できないから、そういう時は自身のプレースピードも下げてプレーするらしい。
ガチガチならガチガチ、小学生なら小学生とそこに応じたスピードでプレーすると上手くいく。
とは言ってもやはり自身に近い方が楽で、小学生相手が一番難しいらしいです。
色々役立てそうな感覚だと感じました。
手
手で覚える。
この事を明日はより強く意識いこうと思います。
その為にもきちんと集中します。
周辺
どんな状況でも周りへの意識を忘れずに。
そこが抜けた瞬間治療どころでは無くなる。
気遣い
受付をしていて、診察券を返すときに予約時にメールアドレスを伝える。
その時に自身が不親切な案内だった。
その事実が自身の課題を表していると思った。
改めるべき点。
優しくないといけない。









