中医内科学 心の病理②
こんにちは、大原です。
前回の続きです。
(前回:中医内科学 その2 心の病理①)
前回同様、訳の難しいところがあり、
日本語がたどたどしい箇所もありますがご容赦ください。
(2)心不主血脈(心、血脈を主らず)
血脈が正常で、気血は暢びやかにその中を流れ、
もって人体の物質代謝と臓腑作用の協調を保証する。
心の作用に障害が発生すると、
正常に血脈の働きをコントロールすることができなくなり、
血脈の循行に異常をきたすことによる
多種の病証を引き起こすことになる。
心のよく見られる病機は以下のものである。
心気不足:
心気虚とは、心の作用の減弱を指し、血をめぐらす力が無く、
血脈を推動することができず、
あるいは痰濁、瘀血によって痛みやしびれがおこり
心脈の通行が阻(はば)まれる病理状態を指す。
もし長患いが癒えずに、脾肺の気虚がある、
あるいは年齢のため身体が弱り腎気に虧損があるなど、
生化の源が無いものは
みな心気の虚衰をもたらす。
心気不足は、神が養われるところを失うと
血を運ぶ力が無く気虚であるため
心悸、気短の症状や、脈は虛で細、または結代があらわれる。
心陽暴脱:
心陽虚の極み、あるいは心悸が傷られ、
にわかに虚脱(病人の心臓が急に衰弱して、体温が下降し脈拍が微弱になる現象)となる。
多くは平素より心気が虚弱で、心陽不振があり、
激しい動作をして心気が支えられず心陽が突如絶える、
あるいは大汗をかく、失血過多は、陽に従って陰も脱する、
あるいは邪熱が内に閉塞し、陽気が外に浮越し、陽気暴脱して神気は消滅する。
一般的には心悸怔忡、顔色は蒼白、汗が出て四肢は冷たく、
甚だしければ、脈は微で疾数、散乱して絶えようとする。
心火上炎:
心経の火盛によるもので、経をめぐって上炎したもの。
多くは情志の傷るところにより、五志の過が極み化火し、
心神が内擾するに至って、心中は煩熱し、煩躁して眠れず、
経をめぐって上炎すれば
口や舌に瘡ができ舌は腫れて疼痛する。
心血虧虛:
血は心によってめぐり、心は血によって養われる。
血虚であれば心を養えず、心中動じ怔忡をなす。
『済生方』によると
「怔忡は、心血不足による。」とあり
血不足によって怔忡があらわれる場合は、常に脈が結代促等が伴う。
心脈痹阻:
脈絡の病変で、血流の詰まりや滞りによってたやすく引き起こされる。
特別、心脈について病証を設けているのは
心臓の危害はとりわけ大きく、これは心痹、真心痛の基本病理変化で
多くは瘀血、痰濁が絡を滞らせることによる。
『素問』痹論篇にある
「心痹なる者、脈通じず、煩なればすなわち心下鼓、にわかに上気して喘す」
とあるが、このような病変に属するものがこれにあたる。
次回は
2.小腸の病機についての予定です。
■参考文献
『中医内科学 第2版』 人民衛生出版社
今日の一曲
Takaaki Itoh - Bloom After Broken Life
https://www.youtube.com/watch?v=8nnwbs_umFA
勉学や人生の諸問題で、煮詰まった時に、僕はたまにこれを聴き返す。
【破綻したあとに咲く、「何か。」】
こういう音楽を、勉強時のBGMに取り入れることがあります。
いったい、何回、聴いた(=破綻≒何か咲く)ことやら……
※林先生より「Blogは自由に、なんでも書いていい。」と承ったので、今後はこういう記事も増やしていきます。
※怒られたら止めます。
胃・小腸・大腸
霊枢を読み進めていって勉強している事を書いていきます。
《現代語訳 黄帝内経霊枢 上巻》 P104
邪気蔵府病形篇「黄帝がいう。「私は五臓六腑の気が、みな井穴から出て、滎穴と輸穴を経て合穴に入ると聞いたことがある。
その気血はどの道を通って注ぎ、進入した後どの蔵府および経脈と連結しているのだろうか。その道理を聞きたいものだ。
岐伯が答える。「これは手足の陽経が別絡から内部に進入して、六府に連続しているのです。」
黄帝がいう。「滎穴・輸穴と合穴には、治療の上で一定の作用があるのか」。
岐伯が答える。「滎穴・合穴の脈気は深いところにあるので、内府の病気を治療できます」。
黄帝がいう。「人体内部の府の病は、どうやって治療するのか」。
岐伯がいう。「陽経の合穴を取ります」。」
黄帝がいう。「合穴には各おの名称があるのか」。
岐伯が答える。「足の陽明胃経の合穴は三里にあります。手の陽明大腸経の脈気は足の陽明胃経を循り巨虚上廉で合します。手の太陽小腸経の脈気は足の陽明胃経を循り巨虚下廉で合します。手の少陽三焦経は足の太陽膀胱経で合します。足の太陽膀胱経は委中で合し、足の少陽胆経は陽陵泉で合します」。」
→下合穴の説明が書かれていました。
腑病にはこれらを使いなさいと提示されています。
ここでは特に、足陽明胃経の上廉(上巨虚)・下廉(下巨虚)が大腸・小腸の合穴に設定されている点が気になりました。
《中医薬大学全国共通教材 腧穴学》 P 64
「中医理論によると大腸小腸は全て、広義の胃に属すので大腸小腸の下合穴は胃経上にあるのである。」
《中医薬大学全国共通教材 全訳中医基礎理論》 P130
「胃の通降作用とは、小腸が食物残渣を大腸に送ったり、大腸が糞便を排泄したりする機能も含んでいる。」
→答えなのでしょうが黄帝内経における根拠が書かれていません。
いや、普通に考えて胃から大腸まで繋がっているじゃないか!とよぎりますが、それは西洋医学の解剖学的所見なので東洋医学を考える上では参考にできません。
極力黄帝内経に理由を求めていきます。
胃〜大腸は、水穀の受納〜糟粕の排出までのラインのはずなので、まずは水穀が糟粕になるまでの流れを追っていきます。
<現代語訳 黄帝内経素問 上巻> P210
五臓別論篇「六腑には、常に水穀が充実しているものですが、反対に精気は充実していません。
この道理は、水穀が口から入ったあと、胃は実するが腸は空虚であり、食物が下へ送られる段階になると、腸は実するが胃は空虚になると理由にもとづいています。」
《現代語訳 黄帝内経霊枢 上巻》 P479
腸胃篇
「「黄帝が伯高に問う。「わたしは六腑の消化器官がどのようになっているか、腸胃の大小・長短、水穀を容れる容量の多少などを知りたいと思う」。
伯高言う。「すべてをお話しいたしましょう。
穀物が口から入って体外に出るまでの消化器官の深浅・遠近・長短の数値は次のとおりです。
唇から歯までは長さ九分、口の端から端までは幅二寸半。歯から会厭までは深さ三寸半、水穀五合を容れることができます。
舌は重さ十両、長さ七寸、幅二寸半。咽門は重さ十両、幅一寸半、咽門から胃までは長さ一尺六寸。
胃の形は曲がりくねっており、それを伸ばすと長さ二尺六寸、周囲一尺五寸、水穀三斗五升を容れることができます。
小腸は腹腔の中にあり、後は脊柱に付き、左から右へ向かって周り廻り、腹腔内で幾重にも折り重なって廻り、下口は廻腸に注ぎ、外側は臍の上に付き、廻り折れ曲がり、湾曲すること全部で十六回、周囲二寸半、直径八分と三分の一、長さ三丈二尺。
廻腸は臍の所に位置し、左に向かって廻り、下向きに重なって、折れ曲がり湾曲すること、同じく十六回、周囲四寸、直径一寸と三分の一、全長二丈一尺。
広腸は脊椎に付き、廻腸が送る糟粕を受け取り、左に向かって廻って脊椎の前に重なり、上から下へ行く程太くなり、最も太い所で周囲八寸、直径二寸と三分の二、長さ二尺八寸。
腸胃の水穀を運輸消化する過程は、口唇から肛門まで総長六丈四寸四分、全部で三十二回の湾曲があります」。」
《臓腑経絡学》 P 63
「大腸は、廻腸、広腸、直腸、肛門(魄門)から成る。」
《中医学ってなんだろう》 P 241
「「大腸の伝導」は、広い意味での「胃の降濁」の一部と言えるものです。
胃気が下降していることは、大腸の伝導の前提となります。」
→飲食物が胃に入って糟粕を排出するまでの過程が示されており、それは胃を起点に一連の流れで繋がっているので古人はこのラインを胃の代表する一つのグループとして考えた。
腸の伝導機能とは胃の降濁機能の一部とも言える。
関連が深いからこそ、わざわざ「腸胃篇」という一つの篇にまとめたのかもしれない。
↓「胃の通降(降濁)機能」
①胃◯→小腸→大腸
②胃→小腸◯→大腸
③胃→小腸→大腸◯
④胃→小腸→大腸→◯(糟粕)
続いて「胃経上にある下合穴を刺し腑病を治す」とはどの様な事なのか考えてみたいと思います。
参考資料
<現代語訳 黄帝内経 霊枢 上巻> 東洋学術出版社 南京中医薬大学編著
<現代語訳 黄帝内経 素問 上巻> 東洋学術出版社 南京中医薬大学編著
<中医薬大学全国共通教材 腧穴学> たにぐち書店 主編 楊甲三
<中医薬大学全国共通教材 全訳中医基礎理論> たにぐち書店 主編 印会河
<中医学ってなんだろう> 東洋学術出版社 小金井信宏著
猛暑
患者さん
前回寺子屋で患者さんのお身体を借りる際、極力相手がそのままの自分でいられる様に、こちらの雰囲気に引っ張らないようにと意識しました。
相手の雰囲気に溶け込んでいくように意識。
先生の患者さんへのワンクッション挟む様な挨拶なども聞いていて参考になります。
映画
映画、サウンドオブメタルを見ました。
色んな視点や主人公の感情変化が上手く描かれたとても良い作品でした。
内容は突発的に聴力を失った人の話です。
失ったことで生じる世間とのギャップ。
その中でどうにか聞こえるように、元の生活に戻れる様にと試行錯誤しますが、どうも幸せにはなれない。
結局最後のシーンでは色んなものが破綻して喪失、見方によっては悲惨なものでしたが、その中でも主人公が帰る場所を見つかって良かったと感じました。
自分の生活でも聞こえる、聞こえない関係なく帰るべき場所は必要だと思います。
バガボンドの「おっさん穴」が思い返される。
訓練
最近溶け込む訓練として色んな人と会う様にしています。
やはり考えている事は違う事がほとんどで、話していてもやはり人間なので違いはある。
でもその人にはその人の物語があるので合わせる訓練にはなる。
その為には尊重が必要。
昔この先生の考え方好きだな〜と思った人がいて、大体の内容として
「みんな何かしらの夢を見てるんだからその夢に付き合うのも優しさ」
と仰っていた。
優しさというと少し誤解を受けそうなニュアンスに聞こえますが、仰っている意味はわかる。
主観はそれぞれ違う。
相手の物語に寄り添って初めて答えてくれるものなんだと感じています。
きちんと相手を大切にしなければいけない。
ルーティーン
最近は一鍼堂に行く前に難波神社で拝礼してから向かう様にしています。
何を願う訳でもないのですが、そこからが入りやすいので気に入っています。
猛暑
この時期暑くなり、水分摂取が多くなる。
そういった人の話を最近よく聞く。
同じ条件を作ってみるために、自分も長時間運動時して普段よりも水を大量に飲むようにしてみた。
現れた症状は口渇は病まず、胃部の不快感と倦怠感。
先々週みさせて頂いた患者さんも陽明のある部分に熱を持っていたことが思い返される。
激しい運動時、胃にも熱が生まれ、口渇が起こる。
その熱をさまそうと冷たいものを欲する。
胃熱を覚ます意味では一定の冷たいものは正解だと思う。
しかし多くは冷たい水やスポーツドリンクなどをチョイスし、そこに水分も多くなる。
脾が対処できなくなり、湿を溜め込む。
ここで熱+湿という条件が揃った舌を見てみる。
面白いことに表面に泡が貼っていた。
自身の体質的に酒を飲んだ時に出るこの泡。
熱と湿が中焦で発生した時に生まれるもの?
最近モデル患者さんで確認されるお腹の状態にも近づいた。
水分を摂取しすぎることなく、どうにかして胃熱への対処を行う事が必要か。
そういえば西瓜が昔からこう言った時に使われていて、天然の白虎湯とも呼ばれている事を思い出した。
瓜科の植物は熱を覚ましつつ利尿するものが多いのでこの時期は重宝しそうです。
他に自分の体の現象として勉強になった事が尿量の減少。
そこで気になった事が、果たしてよくトイレに行く患者さんが本当に利尿しているか?という疑問。
水をたくさん飲むから出さなきゃと思ってトイレに行くとしても、もしかしたら少量しか出ていないかもしれない。
相手の行動の色眼鏡を抜く訓練にもなり良かったです。
そう思うとその人の行動が自分の思っている通りの状態でない事も考えられるので、四診と結びつかない情報に意味がないと改めて実感しました。
素問 陰陽応象大論篇(第5)から その2
<学生向け 近日開催予定のイベント>
【学生向け勉強会のお知らせ】東洋医学概論をモノにしよう!
→(随時お問い合わせ受付中です!)
【学生向け勉強会】「素問を読もう!」申込み受付中です
→毎週火曜19時〜 または 毎週木曜13時〜(途中からの参加も可能です。)
こんにちは、大原です。
前回の続きで、「素問を読もう!勉強会」でも
少し触れた内容になります。
(前回の記事→素問 陰陽応象大論篇(第5)から)
前回は、素問 陰陽応象大論篇(第5)の中の
人体を構成するものの、
それぞれの相互転化についての記述について
考えていきました。
↓この一連の流れが重要であるという読み方をしてみました。
「味」→「形」⇄「気」→「精」⇄「化」
さて、素問の記述では、
最初の「味」は「陰」によって生じるとあります。
(「陰」→「味」)
もう一度原文を確認してみましょう。この2行目にあります。
【原文と読み下し】
・・・
水為陰、火為陽。(水は陰となし、火は陽となす。)
陽為氣、陰為味。(陽は気となし、陰は味となす。)
味帰形、形帰氣、氣帰精、精帰化。(味は形に帰し、形は気に帰し、気は精に帰し、精は化に帰す。)
精食氣、形食味、化生精、氣生形。(精は気に食(やしな)われ、形は味に食(やしな)われ、化は生を生じ、気は形を生ず。)
味傷形、氣傷精。(味は形を傷り、気は精を傷る。)
精化為氣、氣傷於味。(精は化して気となし、気は味に傷らる。)
・・・
2行目の「陽」や「陰」とは何を指すのかというと、
「陽」とは「天」のことで、
「陰」とは「地」のことであると、
この文章の前の部分の文脈から解釈できます。
すなわち「味」である飲食物とは、
「陰」すなわち大地のエネルギーによって
生じるということになります。
(「エネルギー」という言葉以外に良いキーワードが思い浮かびませんでした。
他に何か良い訳し方があるでしょうか、教えてください。)
形(肉体)や気、精は、正しい飲食によって得られると
前回の記事でまとめましたが、
さらに正しい飲食とは、
しっかりした大地のエネルギーから生じるということになります。
ちなみに、これらをまとめると
「陰」→「味」→「形」⇄「気」→「精」⇄「化」
となります。
現代の食生活における食材は、
大地のエネルギーをしっかり得たものかというと
そうとも言いきれないのでは?と感じてしまいます。
例えばインスタント食品や人工的に作られた調味料などは、
大地のエネルギーがほとんど無いのではないでしょうか。
また、旬のものでない野菜も
現代はビニールハウスなどによる栽培技術によって
手に入りやすくなっていますが、このような季節外れの野菜は
しっかりと栄養がとれるのでしょうか?
素問の内容から、そのような疑問をふと感じてしまいました。
(現代の農業の技術に関して私は全くの素人ですので、
このような疑問が間違ってましたら謝ります、すみません。)
参考までに、
「五味」の働きについての記述もこのあと出てきます。
辛散、酸収、甘緩、苦堅、鹹耎。
辛は散じ、酸は収め、甘は緩め、苦は堅くし、鹹は耎(やわ)らかにす。
(『素問 蔵気法時論篇』(第22))
さらに、
五味所入、
酸入肝、辛入肺、苦入心、鹹入腎、甘入脾、
是謂五入。
五味の入る所、酸は肝に入り、辛は肺に入り、苦は心に入り、鹹は腎に入り、甘は脾に入る、
是(こ)れを五入と謂(い)う。
(『素問 宣明五氣篇』(第23))
五味の働きについては
現代の薬膳関係の書籍に書かれていますので、
薬膳に興味がある方はご存知かも知れません。
ですが、例えば、
いくら酸味や甘味のある食材を用いて調理したとしても、
その食材にしっかりとした陰がなければ、
味覚としては酸味や甘味を感じたりしても、
実際には身体を養うような本来の食物としての作用が
発現されないのではないでしょうか。
五味は大地のエネルギーから生じるという
原則的な内容について書かれた書籍は
個人的にあまり目にしたことがありませんが、
重要なことのように思います。
参考文献
『黄帝内経 素問』 東洋学術出版社
朱丹溪の処方について。
反佐論
『たとえば近代の医家が宗とし法とするものに丹渓の書がある。その朱丹溪が呑酸を治療する際には炒黄連(さおうれん)を君とし呉茱萸(ごしゅゆ)を佐とする《左金丸》のが常である。また心腹が痛むものを治療する際には、山梔子(さんしし)を倍加して炒乾姜(さかんきょう)を佐とするとよいと言っている。このように寒薬を君とし熱薬を佐とするような処方の構成は、私には理解できない。もしその症状が熱によって出ているものなら冷やせばよいだろうが、どうしてさらに呉茱萸や生姜といった熱する薬を用いるだろうか。もしその症状が寒によって出ているものなら熱せばよいだろうが、どうしてさらに黄連や梔子といった冷やす薬を用いるのだろうか。・・・その疾病の原因を理解できないので、熱薬を用いたり寒薬を用いたりするのである。また、病状と方剤の寒熱が同じか違うかを判断できないので、その病気に対して真の見解を持つことができず、寒熱両方の見解を持ったまま治療していくことになるのである。これが医家における病の最たるものであり、自分自身を深く反省しよく戒めなければならないところである。』
黄連 :清熱燥湿、清熱瀉火、瀉火解毒
呉茱萸 :暖肝・散寒止痛、下気止嘔
山梔子 :清熱瀉火・除煩、清熱利湿、清熱涼血・止血、清熱解熱
炒乾姜 :温中散寒、回陽通脉、温肺化痰・化飲
左金丸(別名:回令丸、萸連丸):清肝瀉火、降逆止嘔
君薬 :主となる病態を治療するもので配合薬の中で最も重要なもの
臣薬 :君薬の作用を強めたり主証に付随する兼証を治療するもの
佐薬 :君薬・臣薬を補助するもの
使薬 :諸薬を調和したり服用しやすくするもの
張景岳は景岳全書の陰陽論の中で劉河間と朱丹溪を、陰陽に対しての治療方針について批判的でありましたが、反佐論の中でも丹渓の書を用いて説明がされています。
病因の把握、治療方針の見立てなど、歴代の医家達にも様々違いがあるように難しいところなのかと思います。
そして、そこが研究し続ける重要なテーマに思います。
【参考文献】
『現代語訳 景岳全書 伝忠録』たにぐち書店
『中薬学』東洋学術出版社
『方剤学』医歯薬出版株式会社
『新版 東洋医学概論』医道の日本社
異名同穴への一考察。
稲垣さんが
以前に異名同穴①という記事を作ってくれた。
こういった勉強はやはり重要であり、
今後の為には必ずなると思う。
そういった訳で、僕も考察を挙げてみよと思う。
経穴は元々孔穴と呼ばれており、
『素問』以前の古代では
臓腑との関連性と言うものはほぼ分かっていなかったようだが、
それが『黄帝内経』(ここではこう記しておきましょう)の編纂により、
中国医学の基礎ができ、
それ以後『難経』や『傷寒論』へと続いたと考えられている。
それに合わせ経穴の研究も始まり、
夫々 名前がつけられたのだと。
これが、現在の基本的な考え方だと僕は思う。
ただ稲垣さんが記したように、
経穴には様々な名前(原文には一名●●と記す)があり、
これに関しては、
単純に様々な流派が存在したと考える。
これは真柳誠氏の書籍等も含め考えたのだが、
一例として『黄帝内経』を基礎とした”黄帝流派”、
そして鍼の名医であった”扁鵲流派”があったのだと思う。
流派が違うというのは、
現代の鍼灸流派で言うと、考え方、捉え方の違いくらいだと思うが、
当時は実際に『黄帝内経』だけでなく、
様々な治療集団があり(元々 統一されてない国であったし)、
全て根底から異なっていたのではないか。
そうなると、
治療に使う経穴名というものも全然変わり、
それを後世の医家達が『明堂』のような書物を編纂する際に
色々な書籍を参考にした結果、
こういうものになったのであろうと。
で、『黄帝内経』を基礎とした書物が遺っていたから
これを基軸に経穴名もつくられたのでは?と考えた。
まぁ、どこにも確証がないので、
一意見として。
痰飲(1)
痰飲について、『中医病因病機学(主編:宋 鷺冰、翻訳: 柴崎 瑛子)』の第9章
「内生要因」より、古典からの引用部分を抜き出す。
「千金方衍義」
その根源が不足すれば、日がたつにつれ水の精華は混濁してゆき、ついには痰飲が出来る。
そして必ず先ず呼吸した大気が及ばないところに集まるので、腸から脇、そして四肢へと達し、
しだいに胸膈へと浸蝕していき、ますます乱れていく。
つまり痰飲の病で胃から始まらないものはない。
「儒問事親」
飲ができるためには原因が五つある。それは憤慨を抑えたことによるもの、疲労によるもの、
思慮が過ぎたためのもの、飲痛によるもの、そして発熱に冷えに損傷されたためのものである。
「医碥」
痰自体は自分の津液であり、・・その静粛機能を失って加熱すれば、
津液が火に煮詰められ、粘っこい濁物に変わる。
また温が失われて寒が過剰になれば、津液が寒のために停滞し、次第に凝結して痰ができる。
「三因方」
飲食過多で道楽にふけり、大声を張り上げてひどく疲れ、運動が適当でなければ、
津液が巡らず、集まって痰飲になる。これは不内外因に属する。
「直指方」
水と飲と起源が同じだが名前が異なる。
人は脾土が欠損しているだけで飲んだ水がいつまでも転化できなかったり心下に停滞したり、
脇間に集まったり、経絡に入ったり、膀胱に溢れたりし、そのために病気になることがよくある。
「本草綱目」
痰涎などは気に従って上下し、入り込めないところはない。
心に入れば竅を惑わせて癲癇・うわ言・幻視などをひき起こす。
【参考文献】
「やさしい中医学入門」東洋学術出版社
「中医病因病機学」東洋学術出版社
休み
普段一生懸命働いて休む。
この休みの時の過ごし方はとても大切だと思う。
上手く休めると、しっかり息を抜く事で今あるものに気づくことができる。
普段から過呼吸な訳ではないけども、ちゃんと呼吸できている感覚になる。
ここまで落とせると、色んな事が整理できて、それを次に活かせるし、思考以外の感覚が使え、今あるものを感じる事ができる。
ここがスタート時点で、そこで感じたものをどう解釈するか。
今も、ふと、唐揚げの臭いがした。
そういえば、この前嗅覚障害の患者さんがきたよな。
でも、自分でも匂いが感じにくくなっていた。この状態になって匂いをしっかり感じている。
きっかけが、ご本人の仰っていた通りなんだろうか。
患者さんも色々お伝えくださるが、それを鵜呑みにせずに別の視点で見ることで、座学としての弁証の視点から別の見え方ができる。
自身で作る脳の束縛の様なものから解けて、気づくものがある。
仕事で懸命にやる事もいいというか、やるべきなんですけど、休みは休みの過ごし方がある。
勉強しなきゃ、ではなくやりたいからやる。
自由にできていないと、外界との現象と壁ができる。
幅を狭める。
午前中ゆっくり過ごして感じた事なので、この感覚をもったまま午後の休日を過ごしたらどうなるかやってみよう。
脈診(04)
瀕湖脉学七言訣(二十、弱脉)
弱来無力按之柔、
柔細而沈不見浮。
陽陥入陰精血弱、
白頭猶可少年愁。
弱脉は力無く来て、按じても柔、
柔は沈にして細、浮では見られず。
陽は陥入し、陰精血は弱、
白頭(老人)は考えられるが、少年なら愁う。
脉が骨周辺まで沈む理由が何なのか..
自問自答してみる。
年老いて骨が弱くなり営気を必要としているから、
骨への栄養補給の為に沈下する?
いや、肌肉の中空を維持出来ない為に沈む?
衛気が衰えて、エマージェンシー発生の為に
脉が皮毛に栄養補給にやってくるのが浮脈?
現象に対しての理由は多々ありそう。
【参考文献】
『中医脉学と瀕湖脉学』(株)谷口書店








