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東洋医学・鍼灸医学の研究用ブログです。

行動

行動   とにかく相手に合わせながら動く。   ごちゃごちゃ考えず、いい意味で一心不乱に。   流れを止めない。   自分も相手も頭を使った時は空気が止まる。   先週見させて頂いた人の時、時間をかけすぎてしまっていた。   戻り、報告の際受けた時間をかけすぎというご指摘。   術後の反応を探るときはとにかく早く。   見れる見れないは関係なく行った。   何より驚いたのは患者さんの拍子抜けした空気。   「え?終わり?」   言葉にしなくても伝わった。   見れる見れないはこちらの都合。   患者さんには関係のない話。   患者さんのステージの上で見れる様になる。   相手には相手の都合がある。   常にそこを見ずに先はない気がしました。   都合を考えずに触ってしまって申し訳なくなる。   明日の寺子屋。   燃え盛る様なものをいらない。   ただ相手に任せる事を意識してみる。      
切脈一葦

切脈一葦 序文1

こんにちは、大原です。 『切脈一葦(せつみゃくいちい)』という書物を読んでいきます。 今回は、一番はじめの序文からになります。 原文には二つのカナ文字が一つに合わさった 「合略仮名」という文字があるので、 慣れない内は読みにくいかも知れません。 <読み方>(以下の読み方は、原文をもとにした拙者の解釈によります。(後述)) 切脈一葦 序 脈は実事にして、脈色声形四診の一つなり。 その状、弁しやすからずといえども、指下に心を留めて診するときは、 その掌を指すが如し。 ただその弁じ難き者は、 脈状を全証に参考して邪気の緩急と精気の虚実とを弁ずるにあるのみ。 その法素問霊枢及び扁鵲仲景二氏の書に備わるといえども、 皆分配家のために真面目を失する所多し。 故に活眼を開いてこれを観るにあらざれば、 その真面目を観ることあたわざるなり。 晋の王叔和、これを弁ずることあたわず。 ただ分配家の説を論じて、脈経を著わす。 その書詳なりといえども、ただ文字を論じて脈を論ぜず。 その言に曰く、脈理精微にして、その体は弁じ難く、弦緊浮芤、展転相類す。 心に在りて了し易く、指下明らかにし難し。 沈を謂いて伏と為し、則ち方治永くそむき、緩を以て遅と為すごときは、 則ち危殆(きたい)立ちどころに至ると。 この説出てより以来、脈を診する者、脈状を明むることあたわず。 その弊遂に脈状は明じ難き大業と為すに至る。 これ医門の大厄なり。 それ道は大路のごとくにて、知り易く行なえ易し。 いわんや脈は、実事にして顕然(けんぜん)たる者、 何ぞ指を以て明じ難きの理あらんや。 ただ心に在りて了し難きのみなり。 弦緊浮芤は相類すといえども、 重き脈は、その状分明にして、診し易く、 ただ軽き脈のみ相類して、分明ならさる者あり。 然れども、分明ならざる者は、固(もと)より相類する者にして、 その証異ならざれば、通し用いゆといえども害あることなし。 伏は沈の極みなり。 遅は緩の極みなり。 故に弦緊浮芤の分明ならざる者は、 その証に因りて、沈を伏とし、緩を遅と為すといえども、 また害あることなし。 これ指を以て明にし難きにあらざる所以(ゆえん)なり。 たとえ沈伏緩遅たがわずといえども、 その脈状を全証に参考するの時に当たって、 もし医の心動くときはその証を決断することあたわず。 いわんや病毒に痞塞(ひそく)せられて、 虛脈をあらわし虛損の極み、反って実脈をあらわす者においては、 脈状の疑似に論なく医の心を以て取捨して、 決断するにあらざれば、決断することあたわず。 何ぞただ脈の一診に止らんや。 これ心に在りて了し難きゆえんなり。 手は心を得てよく探り、足は心を得てよく踏む。 もし心手足に在らざれば、探れどもその探る所を知らず、踏めどもその踏む所を知らず。 今その探る所を知り、 その踏む所を知る者は心よくこれを明むるを以てなり。 ------------------------------------------------------------------ <用語の意味> 真面目:本来のすがた、ありさま 活眼:物事の道理をはっきり見通す眼識、見識 上の<読み方>ですが、現代の読み方に近づけるため 個人的な解釈で、 原文をもとに以下のように変更しています。 ・漢字の送り仮名を補足 ・口読点「。」を、文脈から「、」「。」に分別 ・読み方が難しい漢字の読み方を補足、またはひらがなに変更 序文はまだ続きますが、 長くなりますので、続きは次回になります。 参考文献 『切脈一葦』(京都大学附属図書館所蔵) 画像は京都大学デジタルアーカイブより

お腹と体型

  最近は腹診を中心に勉強しています。   まず自分の体験として一鍼堂で治療を受けさせて頂いて外形の変化で一番感じたところがお腹でした。   下っ腹と側面の形が特徴的なお腹です。   治療を受けていくとだんだんとフラットになり、自分では別人のお腹の様になったと思っています。   そこから似たような人を意識して観察する様にしているのですが、反り腰、股関節の動きが悪いという特徴がある気がします。   まだ例が少ないし勘違いかも知れませんが…   循行的には胃経が絡んでくる場所で、私自身も食や消化器官に関するトラブルが発生しやすいので関連があるかもしれないなと思っています。   また、胃関連の気になったところで、普段はそんなに舌が濡れていていないのにその日はとても唾液が多い人がいた。   腹部を触らせて頂くと胃の部分がとても冷たかった。   お話を聞くと冷たいものが多くなっているらしく、食欲不振も起こっているらしい。   残念ながら背中は触れませんでしたが、反応があるのか気になるところでした。     PS今回のブログで使用している写真ですが淀川花火大会のものです。 自宅付近のとある場所から見えるのですが、3年ぶりでしたのでじっくり観ました。 とても綺麗で、フィナーレの打ち上げではたくさんの歓声が上がっていました。 自宅の近くで毎年行われるイベントなので正直最近はしっかり観れていませんでしたが、やはり行なって頂いた方が8月!って感じで楽しいです。

補瀉

補寫に関して気になったので調べていきます。   《現代語訳 黄帝内経霊枢上巻》P 14 九鍼十二原篇 「針の技術の要は、刺鍼の部位が適当であることと徐疾の手法の正確な運用にあります。」 「気の働きの虚実変化を理解すれば、補瀉の手法を正確に運用でき、毛筋ほどの間違いも起きる様なことがありません。」 「気の往来の時期を理解してはじめて刺鍼の正確な時間を理解できるのです。」 「気が去るとき経脈が空疎になるのを『逆』、気が来るとき経脈が充実するのを『順』といいます。」   《現代語訳 黄帝内経霊枢上巻》P 18、19 九鍼十二原篇 「瀉法を用いるときは、かならず鍼を素早く刺入して気を得たのちゆっくり抜き去り、大いに鍼孔を揺らして、表用を開けば、邪気を外に洩らすことが出来ます」 「補法を用いるときは、経脈の巡行方向にしたがって鍼を向け、ゆっくりと散漫な様子でそっと刺します。鍼をめぐらして気を導き、経穴を按じて鍼を刺すとき、あたかも蚊が皮膚の上を刺しているようなあるかなきかの感覚があります。鍼を抜き去るのは速く、矢が弦から放たれたかのように、右手で鍼を抜き、急ぎ左手で鍼穴を按ずれば、経気は留まり、外は発散せず、中は充実し、留血の弊害もありません。」 「鍼を刺すときは経気の到来を候わなくてはなりません。」   《現代語訳 黄帝内経素問》P272 鍼解篇 「虚証を鍼治療する際には、鍼下に熱感がなくてはなりません。なぜなら正気が充実すると熱感が生まれるからです。 実証を治療するときには、鍼下に涼感を感じなくてはなりません。なぜなら邪気が衰えてはじめて涼感が起こるからです。」   →補寫どちらにおいても気が至ったり去ったり、熱感・涼感を感じる感覚が重要。 手技としては、どういった速度で刺し抜きするか・どの様な角度で刺すか・揺らすか・案じるか。     《鍼灸臨床能力 北辰会方式 理論篇》P344 「臨床的には、かつては太い鍼をゆっくり入れて気を温め集めて、スッと抜いていた。抜くときにゆっくり抜くと、鍼穴が余計に広がって、気が漏れやすく散りやすくなるためである。現在の鍼は細くなっているのでその必要がない。ゆっくり入れてゆっくり抜けば良いのである。」   →古代と現代の違いを感じました。昔と全く同じ条件ではないので、形ではなくそれが何を意味するのかきちんと理解していないとこれからズレた認識が生まれてきそうです。 また、ここから補瀉の際にどんな鍼を選ぶかなどのヒントにもなっていそうな気がします。   読んでいて、昔の人はどんな方法で鍼を作って保管していたのか。 現在は鍼をどの様にして作っているのか。 現在の鍼になった分岐点などはいつなのか。 なども気になってきました。   参考資料 《現代語訳 黄帝内経霊枢 上巻》 東洋学術出版社 南京中医学院編著 《現代語訳 黄帝内経素問 中巻》 東洋学術出版社 南京中医学院編著 《鍼灸臨床能力 北辰会方式 理論篇》 緑書房 一般社団法人 北辰会学術部編著            

手の置き方 など

礼儀 こちらがどう思おうが、伝わらなかったら意味がない。 過剰なものは不必要だけど、最低限の事を伝えられなかったら相手にも失礼だし、自分の心持ちも悪くなる。 気をつけます。   空気感 体質によって作られる空気感を言語化できる様になれればなと思います。 心脾両虚の人はどこか「心が丸裸」で繊細な印象で、 肝火がある時は「空気が怒気(?)を孕んでて見てて怖い」など 言動、様子などでもある程度弁証できる気がしています。 先入観になってはいけないので、実際の体の反応と結びつけて勉強していければなと思います。   熱 学校の授業で灸を行ったり、熱を持たせられる様な実技が多いです。 先週受けた授業で、自身の体に熱が籠っていた。 後の反応として、翌日「こうなるかも?」と伝えて頂いていた事と、一時的に体が熱くなり放熱する様な感覚を覚えた。 どこかに出口はあると改めて実感しました。   手の置き方 先週ご指摘頂いた腹診時の手の置き方、問題は自分の意識にあると感じた。 もし患者さんに 「ここの手を置いて下さい」 と言われたらああいった感じにはならないと思う。 問診・切経に合意してご協力頂いたのだから、患者さんにとっての失礼はあってはいけないけど、こちら側で作った問題を持ち込む訳にはいかない。   明日の課題です。

仕事の帰りに少彦名神社

少彦名神社 【御鎮座】 道修町には、明暦四年(1658)頃から薬種商が集まっており、享保七年(1722) 124軒が幕府より道修町薬種中買仲間として公認された。 この仲間が生命に関する薬を神の御加護のもとに間違いなく取り扱えるよう、中国の薬祖神・神農氏と共に、 安永九年(1780)京都・五条天神から少彦名命をお招きして、仲間会所(現在地)におお祀りした。(引用:神社の案内より) (´ー`) 仕事の帰りに足を延ばし、少彦名神社に参拝に行ってきました。 御鎮座より今年で240年という事で、お薬と大阪との長い付き合いを感じます。 学生時代より度々お参りに来ておりますが、卒業後では初めて来させて頂き、試験合格のお礼をさせて頂きました。 卒業し、鍼灸師となった立場で神様に手を合わすというのは違った思いがあります。 本日は梅雨時の隙間、暑さは止みませんが、良い風が吹いていたように思いました。

中国の思想(01)

老子 一章 真理は固定したものではない 道可道、非常道。 名可名、非常名。 無名天地之始、有名万物之母。 故常無欲以観其妙、常有欲以観其徼。 此両者同出而異名。 同謂之玄。 玄之又玄、衆妙之門。 道を可とする道は、常なる道に非ず。 名を可とする名は、常なる名に非ず。 無は天地の始まりの名、有は万物の母の名。 故に常なる無は其の妙を観さんと欲し、常なる有はその徼を観さんと欲す。 この両者は同じ出にして名を異とする。 同じく、これを玄と謂う。 玄のまた玄を、衆妙の門とす。 【参考文献】 『中国の思想[Ⅵ]老子・列子』徳間書店

中国の思想(06)

老子 六十八章 「不争の徳」 善為士者不武。 善戦者不怒。 善勝敵者不与。 善用人者為之下。 是謂不争之徳、是謂用人之力、是謂配天之極。 善く̪士たる者は武ならず。 善く戦う者は怒らず。 善く敵に勝つ者は与わず。 善く人を用うる者はこれが下となる。 これを不争の徳と謂い、これを人の力を用いると謂い、これを天の極みに配すと謂う。 (引用:『中国の思想[Ⅳ]老子・列子』P108) 《私議》 以前は戦時中を題材にした書物を読む事が多かったですが、 その中にあった『海軍士官たるもの、常に激してはならない』との教訓を覚えております。 日露戦争の終わった後に、連合艦隊が解散する時、 『連合艦隊解散告別之辞』というのが発せられます。 一番有名なのは最後の一文なのですが「・・勝って兜の緒を締めよと」です。 そこに至るまでの文面においては、日本という地形上に海軍が重要である事や 日々の訓練が重要であるとの教えを説いています。 戦うというのは腕力だけに限らないですが 日々の心の持ちよう、日々の努力、俯瞰して全体を観る能力とか、 人との関わりあいとか、為になります。 【参考文献】 『中国の思想[Ⅵ]老子・列子』徳間書店
木

五行色体表の学習

皆さまこんにちは。 本日は五行色体表の暗記を行う際に、 気になったものについて学習しました。 私が特に難しいと感じたのは〝五脈〟です。 五脈(弦、鈎、代、毛、石) 難しいと感じる理由として、 漢字からどういう脈なのか イメージできるものと、しにくいものがあると感じました。 そこで、まずは教科書から五脈について学んでみたいと思います。 はじめに五脈とは? →五脈は五臓と対応する脈のことである。 〈対応する五臓と脈について〉 (肝)弦は、糸がピンと張ったような脈 (心)鈎は、拍動の来るときが強く、去るときが弱い脈 である。 (脾)代は、やわらかく弱い脈のことで、「代脈(不整脈の一種)」とは異なる。 (肺)毛は、羽毛のように軽く浮いて力のない脈 (腎)石は、石のように硬く沈んだ脈 『素問』平人気象論篇第十八では、五季の正常な脈を 「春は微かに弦」「夏は微かに鈎」「長夏は微かに耎弱(ぜんじゃく)」 「秋は微かに毛」「冬は微かに石」と記載し、この脈以外では病や死になるとしている。 ここまでは教科書に記載していた内容です。 次に、東洋学術出版社『素問』平人気象論篇第十八(p304〜308)から抜粋した原文をみてみたいと思います。 【原文】 平人之常气禀於胃。胃者平人之常气也。人无胃气曰逆。逆者死。 春胃微弦曰平。弦多胃少曰肝病。但弦无胃曰死。胃而有毛曰秋病。毛甚曰今病。藏真散於肝。 肝藏筋膜之气也。夏胃微钩曰平。钩多胃少曰心病。但钩无胃曰死。胃而有石曰冬病。 石甚曰今病。藏真通於心。心藏血脉之气也。长夏胃微耎弱曰平。弱多胃少曰脾病。 但代无胃曰死。耎弱有石曰冬病。弱甚曰今病。 藏真濡於脾。脾藏肌肉之气也。秋胃微毛曰平。毛多胃少曰肺病。但毛无胃曰死。毛而有弦曰春病。弦甚曰今病。藏真高於肺,以行荣冲阴阳也。 冬胃微石曰平。石多胃少曰肾病。但石无胃曰死。石而有钩曰夏病。钩甚曰今病。 藏真下於肾。肾藏骨髓之气也。 【書き下し文】 平人の常気は胃に稟く。胃なる者は平人の常気なり。人に胃の気なきを逆と曰う。逆なるものは死す。春の胃は微弦なるを平と曰う。弦多く胃少なきを 肝 病むと曰う。但 弦のみにして胃なきを死と曰う。胃ありて毛あるを秋に病むと曰う。毛甚だしきを今病むと曰う。蔵の真は肝より散ず。肝は筋膜の気を蔵するなり。夏の胃は微鈎なるを平と曰う。鈎多くして胃少なきを心 病む曰う。但 鈎のみにして胃なきを死と曰う。胃ありて石あるを冬に病むと曰う。 石甚だしきを今病むと曰う。蔵の真は心に通ず。心は血脈の気を蔵するなり。長夏の胃は微・耎弱なるを平と曰う。脈多く胃少なきを脾 病むと曰う。但 代のみにして胃なきを死と曰う。耎弱にして石あるを冬に病むと曰う。弱甚だしきを今病むと曰う。 ...

素問 陰陽応象大論篇(第5)から 

<学生向け 近日開催予定のイベント> 【学生向け勉強会のお知らせ】東洋医学概論をモノにしよう! →(随時お問い合わせ受付中です!) 【学生向け勉強会】「素問を読もう!」申込み受付中です →毎週火曜19時〜 または 毎週木曜13時〜(途中からの参加も可能です。) こんにちは、大原です。 素問の勉強会では、現在 陰陽応象大論篇(第五)の内容を読み解いていっております。 さて、素問 陰陽応象大論篇(第五)の中に、 気(人体を動かす力)、 形(肉体)、 味(飲食物)、 精(生命活動を維持する源泉) それぞれの相互転化についての記述があります。 その原文と読み下しは以下になります。 【原文と読み下し】 ・・・ 水為陰、火為陽。(水は陰となし、火は陽となす。) 陽為氣、陰為味。(陽は気となし、陰は味となす。) 味帰形、形帰氣、氣帰精、精帰化。(味は形に帰し、形は気に帰し、気は精に帰し、精は化に帰す。) 精食氣、形食味、化生精、氣生形。(精は気に食(やしな)われ、形は味に食(やしな)われ、化は生を生じ、気は形を生ず。) 味傷形、氣傷精。(味は形を傷り、気は精を傷る。) 精化為氣、氣傷於味。(精は化して気となし、気は味に傷らる。) ・・・ 原文三行目から、 体内での転化について述べられていますが、 どのように起こっているのかを原文通り順番に読んでいくと、 一見このようになります。 味帰形、 「味(飲食物)」→「形(肉体)」 形帰氣、 「形(肉体)」→「気(人体を動かす力)」 氣帰精、 「気(人体を動かす力)」→「精(生命活動を維持する源泉)」 精帰化。 「精(生命活動を維持する源泉)」→「化(必要な気血などを他の物質から変化させる作用)」 さらに4行目以降も転化についてですが、 精食氣、 「気」→「精」 (「精」は「気」によって食(養)われる、という意味から) 形食味、 「味」→「形」 (「形」は「味」によって食(養)われる、という意味から) 化生精、 「化」→「精」 氣生形。 「気」→「形」 となります。 矢印は、物質などの生成の向きを示していますが、 「形」は「気」を生成したり(原文3行目)、「気」は「形」を生成したり(原文4行目)、 また「精」は、「化」を生み出し(原文3行目)、反対に「化」から生成される(原文4行目)とあり、 チャート図のように読んでしまうと、 混乱してしまう印象を受けませんでしょうか? ですが、ここでのポイントは、 これらの相互の関連は その調和が保たれているということが重要だということだと思います。 「気」→「精」などのようにそれぞれ別個で抜き出すのではなく、 これらをまとめて、 「味」→「形」⇄「気」→「精」⇄「化」 のように表してみると、「気」について、 例えば次のように意訳できると思います。 「飲食物を得た肉体からは「気」が生じ、 その「気」が充実していると生命活動の源泉である「精」も充実してくる。 その「精」が充実してくると、飲食物から体内に必要な気血を化する作用を生みだす。」 このように、単に、肉体から「気」が生じるというのではなく、 飲食物を得て充実した肉体から「気」が生じるという、 一連の流れが重要なのだと思います。 同様に、単に「気」から「精」が生みだされるというのではなく、 飲食物を得て充実した肉体によって気が生みだされ、 (肉体や気が充実するためには飲食物もしっかりしたものが必要だと思いますが) その「気」が充実してくると「精」が生みだされるということだと思います。 一連の流れが重要だということだと思います。 以下に、参考までに、上の原文の意訳を記します。 【意訳】 水は陰であり、火は陽である。 火である陽は、人体においては気であり、 水である陰は、飲食物(味)である。 飲食物によって肉体(形)は形成され、 飲食物を得た肉体からは気が生じる。 その気が充実していると、生命活動の源泉である精も充実してくる。 その精が充実してくると、体内に必要な気血に化する作用を生みだす。 すなわち、精を作り出すには気を消費し、 肉体は飲食物を得ることで成り立っているのである。 また、化する作用によって精は生まれ、 気によって肉体ができるともいえる。 しかしながら、これらの相互関連は、その調和が保たれている場合にうまくいくのであり、 飲食の不摂生・偏った飲食があると、その飲食によって肉体はかえって損傷され、 肉体が損傷するので気も弱り、気から充実するはずの精も傷られることになる。 まとめると、正しい飲食からは肉体や気が充実し、さらに精をも生み、 精が充実していくると気も充実してくる。 反対に飲食の不摂生や偏った飲食は肉体や気が弱り、 精を作り出すこともできなくなるということである。 すなわち気は精をよりどころとしているので、飲食の不摂生によって障害されるのである。