自分、胆経
自分
頭ばっかり使うタイプなので、極力頭を使わずに1人で暗い世界で生きていこうと思ったけどその中で自分を失ったら意味がない。
人それぞれのやり方はあると思いますが、自分自身に過度な自己否定も行ってはいけない。
奥底にしっかりと自分を持ち、外は柔らかい状態で相手に合わせる。
つけ上がらせず、奥底の正しい位置でしっかり抱え込んでいれば外への興味も湧いてくる。
また、外界の物事に引っ張られてはいけないけど、形は合わせなければいけない。
形を合わせるために色んなことを学んでいかなければいけないし、全部できる様にならなければいけない。
しっかり抱え込んでいればどんな形にもなれる。
現状として、自分が崩れてしまったせいで弱いものへの合わせ方をさせてしまっている。
過去にあった事実は変えられないので、それはそれとして受け入れた上でやっていくしかない。
胆経
胆経で停滞が起こっている時、丘墟にも出るとは思うのですが、もう少し上の懸鐘あたりも反応が出る事もあると思いました。
表裏なので背景に肝鬱が絡んだ邪気かもしれません。
この状態を変えるにはどうするか、色んな角度からみていきたいと思います。
易経 その2
つづき
この易経ですが、一般的には「当たるも八卦、当たらぬも八卦」の占いのイメージがつよいですが、本を読んでみてそれだけではないことがわかりました。
易経には大昔の人が、世の中の仕組みや人生においての法則があって、その法則には一定のルールがあり、それを64種類の物語にして教えてくれているらしいのです。
その法則を理解して身につければ、もはや占う必要性もなくなり世の中の森羅万象、物事の道理、そしてその先行きが見通せるようにもなるというのです。
そう聞くと更に興味が湧き、是非理解を深め、その智慧の恩恵に与りたいと思うのも必至です。
そんな易経ですが、いつの時代に出来上がった考え方なのかと調べてみると、今、日本で一般的に使われている「易」は「周易」と言って周王朝時代に確立したそうです。
その周王朝時代の日本は何時代か見ると、縄文時代でした。
恐るべし中国史です。
そんな昔から世の中の道理が解明されていたのにびっくりです。
東洋医学といい、易経といい太古の先人に感謝します。
お腹と体型
最近は腹診を中心に勉強しています。
まず自分の体験として一鍼堂で治療を受けさせて頂いて外形の変化で一番感じたところがお腹でした。
下っ腹と側面の形が特徴的なお腹です。
治療を受けていくとだんだんとフラットになり、自分では別人のお腹の様になったと思っています。
そこから似たような人を意識して観察する様にしているのですが、反り腰、股関節の動きが悪いという特徴がある気がします。
まだ例が少ないし勘違いかも知れませんが…
循行的には胃経が絡んでくる場所で、私自身も食や消化器官に関するトラブルが発生しやすいので関連があるかもしれないなと思っています。
また、胃関連の気になったところで、普段はそんなに舌が濡れていていないのにその日はとても唾液が多い人がいた。
腹部を触らせて頂くと胃の部分がとても冷たかった。
お話を聞くと冷たいものが多くなっているらしく、食欲不振も起こっているらしい。
残念ながら背中は触れませんでしたが、反応があるのか気になるところでした。
PS今回のブログで使用している写真ですが淀川花火大会のものです。
自宅付近のとある場所から見えるのですが、3年ぶりでしたのでじっくり観ました。
とても綺麗で、フィナーレの打ち上げではたくさんの歓声が上がっていました。
自宅の近くで毎年行われるイベントなので正直最近はしっかり観れていませんでしたが、やはり行なって頂いた方が8月!って感じで楽しいです。
しゃべる訓練など
しゃべる訓練
しゃべる訓練として自分語りをします。
先日一鍼堂で「なぜ鍼灸師になろうと思ったのか」と言った話を先生とした。
その時にお伝えした内容ですが、それよりもっと前になぜ医療をやりたいのかと言った問答が自分の中にあった。
大学生一回生の時、情報基礎倫理の授業で
「グラスに入った水が半分残っています。
これをどう考えますか?」
と言ったテーマで講師が話していた。
その問いに対して
「残り半分もある」
「残り半分しかない」
どう捉えましたか?
と言った内容だった。
話を聞いていて、ふと陰陽の考え方がよぎった。
グラスには水の入った部分もあれば空の部分もある。
全てには逆の側面がある。
もちろんその先もあるが、ほとんどの事象はそう。
世間一般の良いや悪いの評価に対して
何でお前らに決められなあかんねん、と疑問を抱いていた中で出会ったそんな考え方。
自分の中にドカーン!と言った感覚があって、その日の学校の帰りは見るもの全ての逆の側面を見るようにしていた。
東洋医学の中にある考えの一つに触れ、それが何なのか知ってみたくなった。
何となくですが、その先に自分みたいなしんどい人が救われる未来があるのかなと医療人を目指したような気がします。
過去に囚われるのは良くありませんし、そこに縛られている訳でもありませんが、先へ進む為にもいい振り返り方はありかなと感じた。
カフェにて
老子を読んでいて、ボーッとしながらふと周りの景色が入ってきた。
その時に大きく飾られていた世界地図を見た。
ありきたりな感想ですが、
「日本って小さいなぁ」
そう思いました。
この狭い国の中でさらに狭いコミュニティに縛られる必要はない。
もっと広く、大きなものを。
世界地図だって宇宙を含めたらまだまだ狭い。
どこまでも伸び伸びと。
思い浮かんだ逍遥という言葉。
単語としては一番好きかもしれません。
何も抱かない
何か不満が募る。
そこは出した方がいいかもしれない。
でも、そこを抱かない事が一番大切。
最初からなければ何も生まれない。
何に焦点を当てて生きていくか。
スッキリした人間でありたい。
腹部と経穴
習った腹部のエリアと経穴を一致させるために、心経の穴のみをを軽く刺した。
刺した後に感じる腹部の変化。
変化を感じる事ができて良かったです。
脈診(04)
瀕湖脉学七言訣(二十、弱脉)
弱来無力按之柔、
柔細而沈不見浮。
陽陥入陰精血弱、
白頭猶可少年愁。
弱脉は力無く来て、按じても柔、
柔は沈にして細、浮では見られず。
陽は陥入し、陰精血は弱、
白頭(老人)は考えられるが、少年なら愁う。
脉が骨周辺まで沈む理由が何なのか..
自問自答してみる。
年老いて骨が弱くなり営気を必要としているから、
骨への栄養補給の為に沈下する?
いや、肌肉の中空を維持出来ない為に沈む?
衛気が衰えて、エマージェンシー発生の為に
脉が皮毛に栄養補給にやってくるのが浮脈?
現象に対しての理由は多々ありそう。
【参考文献】
『中医脉学と瀕湖脉学』(株)谷口書店
背中・寺
姉の身体を触らせて貰いました。
気になったのは右の腎兪のあたりのエリアが落ち込んでいると思った。
お腹を向けてもらうと夢分流腹診の表で左の腎に当たるエリアが右に比べて力がなく柔らかかった。
実際のところ背中の臓腑の反応は腹とリンクするのか、またリンクするとしたらそこに規則性はあるのか気になります…。
腹、背中と触っていたら左の踵が痒いと掻き始めたのでこれも何なのか考えてみます。
また、背候診とは別件ですが、先日京都の法然院に行ってきました。
銀閣寺から哲学の道をしばらく歩いていった場所にあるお寺なのですが、行ってみると観光客もおらずゆっくり見て周ることが出来ました。
静かなのでセミや鳥の鳴き声、水の音などをじっくり聴け、生えている苔などもとても綺麗でいい場所でした。
また気が向いた時に行こうと思います。
写真撮影可能なお寺でしたのでアイキャッチ画像に設定しています。
『舌鑑弁正 訳釈』より紅舌を学ぶ。
こんにちは稲垣です。
『舌鑑弁正 訳釈』の”紅舌総論”より学びます。
・・痩人多火、偏於実熱、医者拘於外貌、輒指為虛、
誤服温補、灼傷真陰、域誤服滋補
(名為滋陰降火、実則膩渋酸歛膠粘、実熱、引入陰分)、
漸耗真陰、亦成絳舌、而為陰虛難療矣
(其初必有黄苔、医者不知、久之内傷己甚、不能顕苔、而変絳色矣。
凡陰虛火旺之病、自生者極少、多由医家誤用補薬逼成也)。
不論病状如何、見絳舌則不吉。・・
(引用:『舌鑑弁正 訳釈』P221~222)
・・痩せた人は火が多く、実熱に偏る、医者は外見にとらわれ、痩せていれば虛とする、
誤って温補を服用し、心陰を焼き傷る、誤って慈補を服用
(滋陰降火という、実すれば則ち膩渋酸歛膠粘、実熱、陰分に引き入れる)
真陰が次第に消耗、また絳舌となる、陰虚が治り難くなる
(初めは必ず黄苔、医者は知らず、時と共に内傷が甚だしくなり、苔が目立たぬまま、絳色となる。
陰虚火旺の病、自らそうなるものは極めて少なし、多くは医家の補薬の誤用によるもの)。
病状がどうあれ、絳舌は則ち吉ならず。・・
実際の臨床に立たせて頂いて、感じることの一つに
下焦の邪が強い患者さんが少なからず居られ、
その下焦をいかにクリーニング出来るかが重要に思えるケース。
補瀉の取り扱いは極めて慎重であるべきだと思いました。
鍼灸学校においては腎に実証はないと教育されますが。。
経験を積み考察を深めたいと思います。
今回は黄苔の存否などは分かりやすいと思えました。
【参考文献】
『舌鑑弁正 訳釈』たにぐち書店
痰飲(1)
痰飲について、『中医病因病機学(主編:宋 鷺冰、翻訳: 柴崎 瑛子)』の第9章
「内生要因」より、古典からの引用部分を抜き出す。
「千金方衍義」
その根源が不足すれば、日がたつにつれ水の精華は混濁してゆき、ついには痰飲が出来る。
そして必ず先ず呼吸した大気が及ばないところに集まるので、腸から脇、そして四肢へと達し、
しだいに胸膈へと浸蝕していき、ますます乱れていく。
つまり痰飲の病で胃から始まらないものはない。
「儒問事親」
飲ができるためには原因が五つある。それは憤慨を抑えたことによるもの、疲労によるもの、
思慮が過ぎたためのもの、飲痛によるもの、そして発熱に冷えに損傷されたためのものである。
「医碥」
痰自体は自分の津液であり、・・その静粛機能を失って加熱すれば、
津液が火に煮詰められ、粘っこい濁物に変わる。
また温が失われて寒が過剰になれば、津液が寒のために停滞し、次第に凝結して痰ができる。
「三因方」
飲食過多で道楽にふけり、大声を張り上げてひどく疲れ、運動が適当でなければ、
津液が巡らず、集まって痰飲になる。これは不内外因に属する。
「直指方」
水と飲と起源が同じだが名前が異なる。
人は脾土が欠損しているだけで飲んだ水がいつまでも転化できなかったり心下に停滞したり、
脇間に集まったり、経絡に入ったり、膀胱に溢れたりし、そのために病気になることがよくある。
「本草綱目」
痰涎などは気に従って上下し、入り込めないところはない。
心に入れば竅を惑わせて癲癇・うわ言・幻視などをひき起こす。
【参考文献】
「やさしい中医学入門」東洋学術出版社
「中医病因病機学」東洋学術出版社
メモ
・七衝門
これについて気になるきっかけがあったのでテストが終わったらまた調べていきたいと思います。
調べると背中の診断でも使えるのではと思いました。
・流れ
身体を触らせて頂いていて、流れを止めてはいけない。
そう思った出来事がありました。
・左右差と土台
左手と右手の感覚が違う。
以前から感じていたけど、手首、足首ともに右の方が硬い。
脈も左右差がある。
これを気血の流れの影響として捉えた時、土台となる部分に着目。
お腹にも停滞が現れている。
そこを改善するための動きとして
「左足の中段回し蹴り」の動きを取り入れてみました。
これをきちんと行うには体感として、
股関節の柔軟性ももちろん必要ですが、それよりも大切な事が
「腰を入れる動き」
しっかり腰が入ると自然と股関節のストレッチにもなる。
股関節が柔らかくなったタイミングで右の手首・足首・肩・顎関節の動きも良くなるから身体って繋がっているなあと面白かったです。
顔面部でも顎は下焦の位置に属しますが、そういった認識にも繋がる気がする。
また「腎は作強の官」と言われますが、その意味合いにもリンクするかもしれないなと思いました。
しかし上段蹴りできる人はすごいなぁ…
試してみる
先週とてもいいお話を聞かせて頂けたので手で木・皮製品・自分の身体など色々触る様に意識しています。
触った時の感触を知ることや触り慣れると言った意味でも私にとっては良さそうだなと感じています。
また、手が冷えていたら寒熱は分かりにくくなるのかと思って実験してみました。
内容としては右手の労宮に石膏(性質:大寒)の粉末を2分程度乗せてみる。
その後綺麗に流して右手・左手を中脘あたりに当ててどちらがお腹の温もりを拾いやすいか見てみる。
やってみると明らかに左手の方が暖かさを感じやすい。
右手は感じにくいし、触られているお腹もちょっと冷えて触られたくない。
手を冷やさないって大事なことだなと実感しました。
冷たいもの飲んで手が冷たくなった事を感じた事があるので飲食物も気をつけよう。
また、服越しでもわかると仰られていたので前に歩いている人の背中で何か感じるかも試していっています。
続けていくと拾える様になるのか楽しみです。









