自分、胆経
自分
頭ばっかり使うタイプなので、極力頭を使わずに1人で暗い世界で生きていこうと思ったけどその中で自分を失ったら意味がない。
人それぞれのやり方はあると思いますが、自分自身に過度な自己否定も行ってはいけない。
奥底にしっかりと自分を持ち、外は柔らかい状態で相手に合わせる。
つけ上がらせず、奥底の正しい位置でしっかり抱え込んでいれば外への興味も湧いてくる。
また、外界の物事に引っ張られてはいけないけど、形は合わせなければいけない。
形を合わせるために色んなことを学んでいかなければいけないし、全部できる様にならなければいけない。
しっかり抱え込んでいればどんな形にもなれる。
現状として、自分が崩れてしまったせいで弱いものへの合わせ方をさせてしまっている。
過去にあった事実は変えられないので、それはそれとして受け入れた上でやっていくしかない。
胆経
胆経で停滞が起こっている時、丘墟にも出るとは思うのですが、もう少し上の懸鐘あたりも反応が出る事もあると思いました。
表裏なので背景に肝鬱が絡んだ邪気かもしれません。
この状態を変えるにはどうするか、色んな角度からみていきたいと思います。
蹲踞
何か自宅で出来るトレーニングはないかと考えていたのですが、蹲踞(そんきょ)という姿勢が自分にとっては良いのではと思い、訓練中です。
その姿勢を取りながらすり足で前後左右に歩いたりもするのですがこれが意外と難しい。
足首の硬さもそうですが、特に右に動いた時によろけやすい。
自分の体はどうなっているのか?と考えた時、昔からやっているフットサルやサッカーの影響があるのでは?と感じました。
《藤本蓮風 経穴解説》P 14
「職業によって、経絡・経筋が普通の人より異常に偏っている。偏っている方に気の停滞だ起こる、という診立てが当たったということです。
現代は、皆さんコンピューターをやりますね?キーボードやマウスなどで、どの指にどのように負荷がかかるか?同時に目も疲れますが、何経に狂いが起こるのか?を考えてみて下さい。
生活習慣や職業が、経絡・経穴を決定づけます。」
フットサル・サッカーは切り返しを多用するので、
どうしても足の外側に負荷がかかるシーンが多くなり、O脚が多いと言われます。
私も両足共に外旋気味です。
また、プレーも人一倍右足に偏ったプレーを行うので、片足に負担が大きく左右差も生まれやすいのかもしれないと思いました。
動作を確認すると、右足の第四趾の動きが悪い。
これは足少陽胆経(筋)への影響を表すのか?
《現代語訳 黄帝内経霊枢 上巻》 P231 経脈篇
「足の少陽胆経…体を転側することが出来なくなる」
私は腰を右に捻る動作が苦手なのは、足少陽胆経(筋)に影響した結果なのか?
日常動作も確認していきたいと思います。
参考資料
「現代語訳 黄帝内経霊枢 上巻」 南京中医薬大学編著 東洋学術出版社
「藤本蓮風 経穴解説」 藤本蓮風著 メディカルユーコン
切脈一葦 上巻3 (総論の最後まで)
こんにちは、大原です。
前回の続きです。
(前回:切脈一葦 上巻2)
今回も、原文に書かれている文意を汲み取りながら、
その読み方や
著者の言いたいことは何かを考えていきます。
今回は総論の最後までいきます。
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画像は京都大学デジタルアーカイブ『切脈一葦』より、
12ページ目の最後から引用。
(本ブログ記事で参照した箇所を掲載)
<読み>
たとえよくこの三部九候を、詳に診し得ると
いえども、脈色声形の四診を参考にするの時に臨みて、
何の益あらんや。
これ脈の一診をもって、
万病を診し分からんと欲する者のなすところにして紙上の空論なり。
→前回の記事でもありましたが
ここでもばっさりと「これは机上の空論であるぞ」
と言ってます。
「脈診だけで全部分かろうとしなくても良いではないか、
何かメリットがあるのか?」と。
晋の王叔和(おうしゅくか)、
『難経』に依(よ)りて、
左右を分かち臓腑を配して、もって脈学を唱う。
これをもって同調の人、称して脈学の大成となす。
しかれども脈は血気の流行にして、一条脈の道路のみ、
何ぞ三部各その脈状を異にするの理あらんや。
また、浮中沈は、病人の脈の浮中沈にして、
医の指を浮中沈するの義にあらず。
なんぞ医の指の浮沈をもって、五臓をうかがうの理あらんや。
たとえ明達の人といえども、
その実なくして、その理を究むる理あることなし。
これ王叔和以来、一人も脈学の極めを知る人なきゆえんなり。
後世の脈を学ぶ者、分配家のために、欺かれるを知らず。
徒に精神を費やして、
その道を明むることあたわずといえども、
なおいまだ空言にして、その実なきことを知らず。
ただ、己が見解の及ばざる所となす。
これをもって分配家の脈法を出づることあたわず。
→「いくら聡明で物事の道理によく通じている人でも
中身の無いことに対しては、
その理を追求することはできない。」
と書かれています。
説得力のある言い回しで、手厳しいですね。
ついに一寸九分の地をもって三部となし、
あるいは
掌後の高骨をもって関となし、
あるいは
臂の長短に従いて三部を定め、
あるいは
まず関を按じて、次に寸尺を按ずといい、
あるいは
浮かべて腑を診し、沈めて臓を診し、中をもって胃気を診すといい、
あるいは
浮かべて心肺を診し、沈めて肝腎を診し、中もって胃を診すといい、
あるいは
左を人迎となし、右を気口となし、
あるいは
左の寸関尺に心、小腸、肝、胆、腎、膀胱を配し、
右の寸関尺に、肺、大腸、脾、胃、命門、三焦を配して、
もって診脈の定法と為す。
これ皆三部各その候を異にするの理なきことを知らざるの誤りなり。
→「以上に述べた脈診の考え方は、
理が無いことを知らないためにできた、
誤った理論である。」
と書かれています。
読んでみると分かりますが、
この脈診の考え方は専門学校の授業などで習うものですね・・・。
もし三部各その候を異にすべきときは、反関の脈の如きは、
何の処をもって三部と為(な)さんや。
思わざるの甚だしきなり。
およそ医を業となる者は、皆脈を診するをもって、
先務としながら、もし
この決断することあたわざる脈法をもって、
闇然として、人の病を診して、疑いを隠して、その証を弁ぜんとす。
その危うきこと薄氷を踏むがごとし。
これ何の心なるや。
これを何と言わんや。恐るべし。
歎(たん)すべし。
医を学ぶ者、深く心を用うべし。
あるいは言う、
寸関尺を分かっては、分配家の説なりといえども、
寸部の脈進みて、魚際へ上がる者を、頭中の病とし、
関部の脈に力ある者を、腹中の病とし、
尺部の脈に滞りある者を、腰脚の病とし、
左右は左右を分けて、
心を用いるときは、病人に患る所を問わずといえども、
大概知れる者なり。
しかればすなわち、
寸関尺の部位全く無しと言えからざるなり。
謙(著者の名前)曰く、
これは人相家相等を占する者と、同断にして、
医門に不用のことなり。
いかんとなれば、頭中に病あり、
あるいは腹中に病あり、
あるいは腰脚に病ありて、医に治を求むる者なれば、
脈をもって頭中の病、腹中の病、腰脚の病を占するに及ばず。
病邪の辞にて、知れたることなり。
何ぞ脈をもって占することを竢(ま)たんや。
→ざっくりと
「寸部を頭中の病、
関部を腹中の病、
尺部を腰脚の病とするような脈診は、
これは占いと同じであり
医学には不用である。」
と書かれています。
脈診を「占い」と比喩してますが、これは
脈の寸関尺だけで
病の場所を特定してしまうことに対する
懸念を表したのだと思います。
それ脈の用は、
頭中の病、腹中の病、腰・脚の病ある人の脈を診して、
色声形の三診に合して、
その病の陰陽・表裏・寒熱・虚実を決断するの診法なり。
病毒頭中にあり、腹中にあり、腰・脚に在るの類は、
みな瀉形の与(あずか)る所にして、
切脈の与(あずか)る所にあらざるなり。
これ病証有りて、脈を診すると、
脈を診して、病証を占するとの辞なり。
また脈をもって病毒の所を占すると、
脈をもって病証の陰陽・表裏・寒熱・虚実を決断するの弁なり。
→「脈診の目的は、
患者さんの身体の色や声、形態と合わせて、
それらを総合して、
病の陰陽・表裏・寒熱・虚実を決めるものである。
病が頭にあるのか、腹中にあるのか、腰・脚にあるのかを
脈の寸関尺で分かるとうたっているが、
病がどこにあるのかは「瀉形」によって判断するものであり、
脈診で判断するものではない。
ある病があるからそれに合った脈が現れるのであって、
その脈だからそれに合った病が現れるということではない。
さらに言い換えると、
その脈だから、病の陰陽・表裏・寒熱・虚実が決まるということではない。」
と書かれています。
つまり、脈診だけで全部は分からないぞ!ということが
ずっと書かれていますね。
また、病がどこにあるのかは「瀉形」によって判断するもの
とありますが、
この「瀉形」とは、
切脈、望色、聴声、写形(望診)といった
四診合算のことをいうようです。
その中の脈診だけで病を判断してしまうのは
いかがなものか、
ということを一貫して言っているのだと思います。
引用:
京都大学デジタルアーカイブ『切脈一葦』より
舞台など
舞台
主役をどこに置くか。
そこが以前からずっと課題として残っている。
受付でもこのシーンはこの人にやってもらった方がいいかな?と考えたりもするが黒子になる意識が薄い。
これはチームで行っている事。
受付時、一緒に働いている方々にやって頂いている事を思い返す。
上手い人達はサラッとして作意がないが、落としたところを助けて頂いている。
そうなる為にまずは太極的に、先の動きも考える。
感じられるところまでいければいいが、まずは考えてみる。
考えた上で考える事が違っていれば考えを捨てる。
自分の場合、内省して答えを出すというより、他からヒントをもらって練度を上げていきたい。
外を見る目を養う為にも意識を変えなきゃいけないな。
やり方は色々試していきます。
舌の考察①
色:淡紅
形:軽く歯痕舌、軽く胖大
その他:斜舌
裏は出すのに苦労している様子も窺える。
正気が無くて出せないというより、緊張して舌を操作出来ていない印象。
口の開け方、舌下静脈は偏る
脾気虚。
口の開け方や斜舌など偏りを感じる。
気の偏りがあるかもしれない。
また、舌下を見せるのに歯が見えるまで出すところに真面目で気逆を起こしやすい要素があると思われる。
舌の考察②
前回よりも舌下静脈付近の細絡が目立つ。
これも瘀血の症候としてみれそうか。
以前として強い歯痕舌が見られ、気虚の程度が強い。
考察③
暗紅色、裏に熱がこもり、瘀血。
自身の体なので他の情報と一致させられるが、舌先右の赤みは右の上焦の停滞と一致させられるかもしれない。
京都薬用植物園の麻黄
先日、武田薬品工業(株)京都薬用植物園の『初秋の研修会』に行ってまいりました。
東洋医学の理解の為に、漢方の勉強の一環です。
ガイドの案内で植物園を一周します。
管理する研究員の方々は展示に趣向を凝らしていました。
「麻黄は砂漠に生息しているので、砂漠を模したスペースを造園中です」との事。。
『中薬学』などで、麻黄の効能(辛温解表薬・・)などについて書物の中を散策する事はありましたが、その植物の生息環境を考える事はありませんでした。
その気づきを頂いただけでも行った甲斐はあったように思います。
実際には麻黄の種類も豊富で砂漠のみの生息ではないようですが、基本的には乾燥した地域に生息するようです。
”乾燥した地域に生息し、解表薬となる”
この自然環境が導き出した答えに、探求心が沸き起こります。
水の上限で潤いの必要な華蓋に対して、効能のある植物が乾燥した地域に生息し、成分を蓄える・・
私は中国で砂漠となると、思いつくのがタクラマカン砂漠でした。ゴビ砂漠もあり、砂漠は実際には複数存在します。
解表、皮毛、肺、砂漠・・西?、金の相生⇒水
『五行大義』
金居少陰之位。西方成物之所。物成則凝強。少陰則清冷。故金以強冷為體、従革為性。
現在は『五行大義』をよく読みますが、面白いルールが隠れていうように思えて仕方がありません。
【参考文献】
中薬学(東洋学術出版社)
方剤学(東洋学術出版社)
五行大義(明德出版社)
今日の一曲
Takaaki Itoh - Bloom After Broken Life
https://www.youtube.com/watch?v=8nnwbs_umFA
勉学や人生の諸問題で、煮詰まった時に、僕はたまにこれを聴き返す。
【破綻したあとに咲く、「何か。」】
こういう音楽を、勉強時のBGMに取り入れることがあります。
いったい、何回、聴いた(=破綻≒何か咲く)ことやら……
※林先生より「Blogは自由に、なんでも書いていい。」と承ったので、今後はこういう記事も増やしていきます。
※怒られたら止めます。
背中
ありがたい事に最近人の背中を触らせて頂く機会が増えてきました。
しかし現状として捉えることが出来ていない。
正直な感想としてはどうしたものか。
手が重いと仰って頂く事が多い。
ベターって感じで触ってしまっているのかな。
そんな感じなので何とか手を軽くする様に訓練しないといけないなと思っています。
前に脈診の際に教えて頂いた体勢も意識してみよう。
患者側が体験出来たことも勉強になりました。
なかなか人に背中を触られる経験ってしないので、触られたら嫌な部分ってあるんだと知れました。
また背候診と繋がるかは分かりませんが、自分の身体で食事を変えたら何か変化あるのかなと思って一回の食事量と肉をだいぶ減らして変化を追ってみています。
感覚の部分はあまり感じれていませんが、肉食の人の肌のキメが荒いということと筋肉が硬くなるという事は体感する事が出来ました。
なんの役に立つか分かりませんがせっかくやってみたので書いて残させていただきます。
色々失敗する
問診、切経が長すぎる問題。
先生の施術を診て、省略できる所はどこか
効率の良い方法を流れを止めずに如何に行うか。
模倣してみて、集中できる環境に繋がり効率の良い所作だと感じました。
観察して模倣して、発見して。
少しずつ気付きを積み重ねていきたいです。
鍼を置く時、「手にばかり集中している」
と寺子屋の練習の時に指摘を受けました。
あ、これは切経にも言えることだなと、
下半身にちょっと意識を置いた途端
不思議と相手の脈が私の体の中に入って来る
感覚になり、景色が変わりました。
休日、ひたすら細かい作業をしました。
何時間も作業するので手先に集中するために
無意識で重心や姿勢を調整していたと思います。
たまーに出くわす近所のおっちゃんがいます。
昨日久々に道端で会ったら「人相変わったなー!」と私を見て笑っていました。
(悪い意味ではないらしい。)
「毎日ちょっとずつプラスやで。
いっぱい失敗して勉強させてもらいや〜」
飄々として、気の良いおっちゃん。
「まあ、楽しむんやで」
と一言もらってさよならしました。
肺、金、従革、皮毛、鬼
『五行大義』
金曰従革。従革者革更也。範而更。形革成器也。
西方物既成殺気之盛。
金に従革と曰ふ。従革とは、革は更なり。範に従いて更まる。形革まりて器を成すなり。
西方の物、既に成りて、殺気の盛んなるなり。
『京都薬用植物園の麻黄』より、解表薬から肺系へと探求をしております。
『肺』
五行においては金。
五体としては皮毛。
五性としては従革。
皮毛は”外からのシールド”とだけに、囚われていたように思います。
肺の宣発作用に注目して、粛降作用を見逃していたようにも思え、臓腑の作用を再確認しなくてはと気づかせて頂きました。
また、『五行大義』より
”(皮毛という)大きな袋があるから(臓腑という)中身を沢山詰め込める”
という”器”の機能もあるのだと教えられたように思います。
肺經の經穴では別名に気になるところがあり、繋がりを求めたいと思います。
『手の太陰肺經』
井木穴 ”小商” 別名:鬼信
原穴 ”太淵” 別名:鬼心
合水穴 ”尺沢” 別名:鬼受、鬼堂
(別名の”鬼”が気になって調べていますが、根拠には辿り着かずに探求を継続中。)
『大漢和辞典』
【鬼】
、、人が死ねば心思をつかさどる魂は天にのぼって神となり、形體は地に歸り、形體の主宰である魄は鬼となる。
[説文]鬼、人所歸爲鬼、从儿、田象鬼頭从厶、鬼陰⽓賊害、故从厶。
陰気と肺、金、従革、皮毛、鬼について共通項を見出せそうで、未だ掴めておりませんが、
今後も探求を深めていきたいと思います。
【参考文献】
『五行大義』明徳出版社
『大漢和辞典』大修館書店
『臨床経穴学』東洋学術出版社
『新版 経絡経穴概論』医道の日本社
「10/7(日) 学生向け勉強会」の感想
講師は、盧先生より学びました。
私は現在、鍼灸学校の2年生です。
日々、書物を目にしたり妄想を繰り返したりする日々を過ごしておりますが、
「自分なら、○○なのかな~」とシュミレーションをしたりもします。
それが1年生とは違うところと感じています。
書物などを読み進める上で再確認できたのが、”帰納”と”演繹”。
【帰納】
個々の事例の観察より、これを含む一般命題を確立する事。
一つの症例より他の患者の症例も、このケースであろうとする。
【演繹】
1つまたはそれ以上の命題より、論理法則に基づいて結論を導出する思考の手続。
学術論議を症例を元に構築していき、結論を推定する。
本日学んだ事の一つで重要な事だと感じています。
歴代医家たちのカルテの集積が、症例集であって絶対的な答えではないのだろうと思えます。
学術的に議論の構築を進めることも重要に思いますし、
現実の臨床を繰り返すことと、歴代医家たちのカルテの集積とを見比べることも
精度を高める為に必要な事なのかと思います。
今年のノーベル賞受賞者の本庶佑博士は、記者の質問に
「・・・教科書に書いてあること、文字になっていることを信じない、疑いを持つこと」
と答え、有名な論文雑誌も疑う対象の例外ではないと強調されています。
「自分の目で物を見る、そして納得する。そこまで諦めない」
とも答えらています。
考えていた事と学んだ事がリンクする機会が多かったように自分では思いました。
座学をし、二礼二拍手の効果を実感し、病床にて臨床実技をし、、、
時間のある限り、幅のある講義を試そうされていた様に思います。
お疲れ様でした。次回も楽しみにしています。
最後になりましたが、機会を頂いた院長にお礼申し上げます。
平成30年 秋
稲垣 英伸







